【内側と外側の反転】今よりいい自分になれるという幻想 | カボチャの馬車でドリフトする方法♡

さて昨日も個人セッションだったわけですが、その中で改めて感じたことを綴ってみようと思います。

 

私たちというのは本当に「今よりいい自分」とか「今よりよくなった状態」というのがあるという終わりのない観念をもっているのだなあと改めて感じました。

 

昨日のご相談は主に子育てのことで、私もこれには苦戦している最中なのでまるで自分の話を聞いているように共感しつつ話していました。

 

その中で強く再確認したのは私たちは今の自分をなかなか認められないということなんですね。

もっといい状態の自分になれるはずだという希望は現時点での等身大の自分を否定することとイコールですので苦しくなるのは当然のこと。

なのにどうしても今の自分がダメなものに見えて、今の自分じゃないものになりたいと願ってしまうのですね。

 

今の自分じゃない「本当の自分」というのを探し求めてしまいません?

ていうか私はずーっと探していました(笑)

 

数年前、誰に向かってか「本当のことを私に見せてください」とお願いしたことがありました。

その時帰ってきた答えは「いつも本当の事しか見てないよ」というものでした。

 

今になってみるとそれがどういう意味なのかはわかります。

今目の前に見えているもの以外は(それはいつも移動すれば変わります)すべてすべてないもので、幕妄想です。

それに今自分が考えていることのすべてに所有者もいません。

 

我々はつい、どこかに次のステージのようなところへ続く扉があってそれを開けることが出来れば「本当の自分」に近づけるのではないかと思いがちです。

 

でも扉というものがそもそもないのです。

今目の前にすべてが開かれているにもかかわらず、我々はオープンな中にあって観念の檻に入って生きています。

 

大人になるとビックリするくらい観念の中にしか生きたことがなく、そのことを疑う余地がないというカラクリがあります。

 

その観念の中ではどこか今よりいい場所や本当の自分が今でないどこかにあるようないるような気がしてしまうのですね。

 

でも驚くことにこの観念こそが実体のないもので、本当にないものに縛られて生きているんですよね。

そのことは私もすぐに忘れてしまいます(笑)

 

なんですが、思い出すと内側(観念の檻)から外側(オープン)に戻ってくることが出来ます。

その時はだいたいは笑ってしまいます。

「またやってるなぁ~」という具合です。

 

これは聞く人によると悲報に聞こえるかもしれませんがシンプルな事実で、私たちはいつだって「本当の自分」です(笑)

 

自分じゃないものがどうして今自分に表れることが出来ましょう(笑)

そうなんですよ、「これじゃない方がいい」と思うすべての自分も本当の自分です。

 

自分というものは固定された確固としたものではなくいろんな顔を持っています。

 

昔は「母としても妻としても女としても幸せでありたい」とか思っていましたが、どうして分けて考える必要があったのかなと思います。

 

自分ってその時々のシチュエーションによってさまざまに勝手に浮かび上がってくるもので、いちいちその仮面をつけたり外したりするわけでもないのにね。

 

どうしようもないと感じるダメダメなところも本当の自分であるしいい感じにやっててご機嫌な時も本当の自分だという当たり前体操みたいな(古いな笑)話であって。

 

ダメダメと感じるときにはつい「何かをどうにかすれば」いい感じの時の自分に到達してずっとその状態でいられるって思いがちですが、それは幻想です。

 

「変な意味」で自分をあきらめろと言いたいわけではないんです。

 

どこか今ではない別の場所にたどり着こうとすることがしんどさを産むっていうことが言いたかった。

 

ということで、今日もこれからセッションなので早く化粧をしなければいけないっ(笑)

 

ということで、股!!!!!