でも本当は世界は内側にあるんです② | カボチャの馬車でドリフトする方法♡

昨日の続きです^^

 

 

さらに説明をわかりやすくするためにイラストを簡略化でしてみました

こんな感じです

 

真我の中に水晶に入った世界がたくさんあるという感じです

これ↓が無数にある

 

で、改めて「すべてはひとつ」の説明です

 

擬人化した表現をすると背景である真我はひとりです


ひとつのキャンバスの中にいろいろな絵が描いてあるといってもいいかもしれない

 

この図を立体だとみていただき、「大きいわたし」が「小さい私」としていろんな世界を体験したいがために様々な「私」となって、あるいは木やビルや学校や犬猫…になって世界を体験しているという感じです

 

この図で私と他人は本当は一緒っていう意味が伝わるかなあと思います

 

自我目線で見ると他人は別の人間ですよ、普通に。

だから他人は私といわれてもピンとこなくて普通です


でも、この図のように発生源は一緒なんですね

 

このことはあくまで擬人化した表現であり、本当はシステムだからもっと無機質な「現象」なんですけどね

 

ちなみに図の上の方の小さいものは赤ちゃんを表しています

 

赤ちゃんには「概念」が全くないです

赤ちゃんの世界にあるのは天井と壁とママの顔くらいのもので「世界」はとても小さい

ほとんど「空」(真我)からっぽの状態に近いわけです

 

大人が新生児や月齢の浅い赤子を観ると神聖さや尊さを感じずにいられませんよね

 

抱くと癒され心が洗われるような気持になるのは「大きい方のわたし」をリアルに感じられる存在だからだと私は思っています


発生源にとても近いから、我々のふるさとを思い出させてくれるのだと思う

 

 

ちょっと抽象的な表現が続いたので次に具体的な説明を軽くしてみたいと思います


でもその前に次の記事ではこういったことの「体感」について描いていたいと思います

 

続きます^^