自分のことを誰かに分かってほしかったり
反対に誰かを理解したいとか思うんだなぁ
人の数だけ世界がある
みたいな言い方をすると一気にスピっぽくなるんですが、まぁそれもいいんだけれどもね
私もスピ好きだしね
けどももつひとつ物理的な話として
目の前に展開している何もかもが脳内での出来事だとわかっていると
脳の数だけ世界がある
とハッキリ理解できるわけで。
ということは
誰も自分の脳の中には入ってこれないわけだから笑、わかるも何もあったものではない笑
こうだろうっていう予測しかできないんだけど、その予測は外れていることも多い笑
自分でしか、自分のことをわかり得ない。
簡単なことですよね
他の誰かのこと、例えば血を分けた子どものことだって正確に分かってるのか?って言われたらどうでしょう
わかるわけない。
完。
ですよね笑
例えば
今隣にいる大好きな彼や彼女と見ている素敵な夕日があったとしても、全く同じそれを見ているとは全然言えない
違う眼球を持ち、違う視神経を持ち、違う視覚野を持っているんだから、目から取り入れた夕日の周波数が同じでも、全く同じ電気信号に変換して全く同じ色を映像化してるなんて確認のしようもないことです
精神的なことになるともっとそうです
言葉の限界というのは簡単に迎えるものだし
〇〇な気持ちと表現してみたところでその〇〇という言葉の持つ概念は一人ひとり微妙にニュアンスが異なります
だから目の前の夕日すら同じものを共有できないのに
どうやって気持ちやらそういう形のないものを寸分違わずわかり合えましょう
んなわきゃない笑
と、なりますぜ
人ってみんなで一つの世界を生きてるように本当に見えますよね〜
いやほんと、そう見える笑
けど違うんだな、コレが
みぃんな、バラバラの世界を生きている
わかり合える
と思うから苦しいんですね
そもそも人って絶対にわかり合えないよ
わかり合ってるような感じになることはもちろんありますけどね
でもそれだって、そうだよねそうだよねって言い合ってる二人が全く同じ意味でそう言い合ってるとも限らないよね笑
別に無機質な意味でなく、正確にヒトの機能として「わかり合う」ということはない。と理解していると、妙な期待も湧きません
別に
分かりあえへんねんから知らんわい!と、突き放す意味でもなく
あの人にもこの人にも私と同じように、それぞれの世界があるのだな
とわかっているだけで、何かを押し付け合うことにはならないわけだよね
それを尊重と呼ぶのかもしれないです
分かってほしい
みたいな気持ちが湧くこと自体、自分が自分のことをわかっていないからだって気づくときってくるんだよね
というか、私はそうだった
分かってほしいが溶けたとき
みぃ〜んな、一人の世界で一人芝居してぎゃあぎゃあやってんだなぁ〜って思えて、笑けてくるよ