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さて今日の話題はタイトル通り。
あたしさぁ、どんなに自分が進化成長していってもさ、この世に人間として生きている限りには悩みが完全になくなるってことはないって思ってたんですよね、ずーっと。
それが人間っつーもんだって感じでさ、スピ界隈でよく言われる感じで表現すると
「愛と光だけの世界から人間界に降りて来て生きるということは、なんでも思い通りになるあちらではどうしても体験できない様々のことを体験するため。悩みや苦しみもその一部。それでこそ三次元」
みたいなさ。
だけど今は、「生きてる限り人間が一切悩まなくなるってことはない」という揺るがぬ大前提を自分がもっていただけなんだなぁ~って思うに至りました。
いつだったか今年に入ってからですけど、そうじゃないってその大前提にメスが入る瞬間があって「あ、これ私の完全な思い込みやわ」と。
そういうのと無縁で生きてる人って普通にいるんだけど、見てみぬふりをしていという感じ(笑)
人はさまざまたくさんの前提を握りしめて生きているんですが、自分ではそれに気づくことが通常はできないので「これはこういうもん」ってな具合でいっぱいいっぱいの勝手な思い込みの制限の中で暮らしています。
(いろんなことが思い通りになんねぇって感じるのはこのせい)
これがさぁ、あんまりにも自然なもんだから意識にも上がってこない上(超自我)、周りには周波や依存の関係なんかで自然と同じような人が集まるため(いわゆる類友)自分が何を思い込んでるのかわかんないんですよね。
(中略)
何が言いたいかというと「悩みがない世界はある」という、多くの人にとっては夢のような(笑)世界があるってことを言いたいのです。
こういう書き方をするとさもすごいことのように見えるでしょうけど、そうじゃないのよね。
二極や正しさや理想、自我や無価値観なんかが取れて抽象度が上がるとそういう世界が開け始めるんです。
が、何か世界や自分がガラッ!!と変わったり、ミラクルなことが起こり続けるとかそういうんじゃないんです。(そういうことを期待する人は多いけどね)
起こる日常はなんら変わりませんし、自分がスーパーウーマンになるわけでもありません。
急にパワーがみなぎったり、超能力が開花するとかもない(笑)
何が変わるかというと、自分の物事のとらえ方が変わるため、みえる世界が変わってくるという感じです。
思い込みのフィルターを通して物事を自分色に脚色しなくなると、起こっていることをそのまま単なる現象として受け止めるようになる。
すると頭の忙しさみたいなものがなくなる。
というのは、そこに正解・不正解や自分の価値、また原因と結果みたいなものを結び付けなくなるため、目の前の出来事にマインドフルネスになるって感じです。
いうたらわざわざ瞑想していらん思考を止めんでも、日常起きて生活してて瞑想状態ってことです。
これは感情の動きがなくなるということではないんです。(だから「愛と光だけ」は生きてる限り確かにあり得ない)
喜怒哀楽がなくなるってことじゃないです。
そうじゃなくて、余計な精神的刺激(アップダウン)がなくなったうえでの喜怒哀楽が起こるということです。
おおっ、文章でここを伝えるのが難しい気がしてるわ、今。
えっとね、不快な出来事がなくなるってわけじゃないのよ。
そうじゃなくて、不快な出来事が悩みや問題に発展しないってことで、ただ「不快な出来事だったな」で終わるってことね。
(中略)
不幸の反対は幸せって思ってたんですよ。
だけど、違うの。
それは二極の考えから出れてないうちはそういう発想しか出ないんだと今は思います。
不幸↓↓↓!!!ってのと幸せ↑↑↑!!!
ってのは上下の刺激のベクトルで、同じものの両極のことです。
いわゆる中道ってのは、極と極の中間のことだと前は思ってた。
両の極を知ってるから初めてどこが真ん中かわかるんだって。
それもそうだと思うんだけど、さらにその二つの対立した矛盾を越えた先にある高い視点での静寂みたいなのがそれかなって今は思う。
静寂とか聞いたら喜怒哀楽の波がなくなってつまらなくなるように思えますが、実際は反対です。真逆。
何しても楽しくなる(笑)!そしてそれに特別感が伴わ……
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