阪神大震災から20年 | カボチャの馬車でドリフトする方法♡
あのとてつもない地震から20年が経ちました。

今日20年のこの日に少し私が経験したことを思い出して書いておこうと思います。
語り継ぐことも、大切なことです。


その日私はまだ寝ていました。
飼い猫と一緒にベッドでぐっすり寝ていたところ、
突然下からとてつもない突き上げが来ました。

どん!とか、どーーん!とかどんな言葉でも表現できないくらいの強烈な直下型が真下を襲ったのでした。

ベッドごと宙に跳ね上がったと思います。

そのあとの激しすぎる横揺れは今思い出しても震えがきそうなほど凄まじいものでした。

どのくらいの時間が経ったか、訳も分からず揺れが収まると同時にこわごわ電気のスイッチを押しました。
停電を経験したことがなかった私は何度もスイッチを押して初めて停電だと気が付いた。

幸い家族はみな無事だった。

家の中はまるで乾燥機の中の洗濯物のように天地がひっくり返り
全てのものが壊れて割れて破壊されつくしていた。

父が色々指示を出して割れたもので足を切らない様に靴下をはいたりした。
真っ暗で何も見えず、私は話したこともない近所の家のインターホンを押し
余っている懐中電灯があれば貸してほしいと頼んで貸してもらった。

しばらくするとどこからともなくガスのにおいが漂ってきた。
真冬だけど寒いとか感じた記憶がない。

窓の外を見ると前方に見えている背の高いビルが途中でボキッと折れていた。
高架はへしゃげて地面についていた。
そこから電車がこぼれ落ちていた。

着の身着のまま毛布をかぶって猫を胸に入れて近くの小学校へ行く。
どこからともなく人々が家から出てきて同じようにしてぞろぞろと歩いていた。
異様な光景だった。

道すがらどの家も二階が一階になる形でつぶれていた。

体育館につくと子供はみんなそこにいて、落ち着いてきたころに親たちは家に戻って貴重品やなんかを取りに行くのが続いた。

公衆電話には長蛇の列ができていた。

3日ほど体育館暮らしを経験した。
一番大変だったのは風呂に入れないことだった。
それと配給されるおにぎりやパンにはすぐに飽きてしまうということだった。
冷たくてかたいそれらはすぐに食べたくなくなって食欲がなかった記憶がある。

我が家は全員無事だったしけがもなかった。
だから大変な経験だったけど振り返ることはできます。

でも書ききれないたくさんの大参事を目の当たりにした衝撃はブログのいち記事に収めることはできません。

あの日を忘れることはできないし、あってはならないと思います。

今でも私は地震が来るととても怯えてしまいます。
地震は本当に怖いです。

軽々しいことは言えないし、私はあの苦しみを持っている人を癒すこともできないけど、自分の経験を少しだけど書くことで何かを伝えられればいいなと思いました。