ドラマや映画や本やマンガの主人公は勿論、その恋人、その友人、その家族、その恋敵、その愛人、その愛人の愛人・・・などなど様々な人物のその生きる生活、そのありさま、その心情などを観る側へ惜しみなく否応なしに伝えてくれるからよいが、嫌味を言うと小出しにしてくれるからやれやれだが、現実は今更ながらそうはいかない。
極めてみようとしなければみえてこない。みたくなくても、見えてしまうものすらも、やはり心ひとつで見えやしない。現実のドラマと題されたノンフィクションの世界には・・・。
しかし本物の(とても変な言い方だが・・・)ドラマや映画や本やマンガはバッドエンディングすらが主人公をキレイな場所へ収納してくれる。
或いは悪役までもをそうする。
もしくは善人を悪役へ虐げる。
(その点おいては現実のドラマと題されたノンフィクションの世界にも同じだ。)
ある書の受け売りになるが、『 彼等がその何々主義者になったのには、何やら必ず一つの転機というものがある。そうしてその転機は、たいていドラマチックである。《 略》
そこには下手なこじつけに過ぎないような気がするのである 。』
これだ。
もしもドラマが映画が本やマンガが新聞のように、要するにメディアのあるべき姿である「私論は語るな。事実を報道せよ。」を搭載したらどうなるだろうか。
きっと誰も主人公を主人公と思わないだろう。
当たり前だ・・・。
何を言っているかきっとわかって貰えない。
「例えば?」、「具体的には?」と言われるとすぐに適当な答えを用意できないのがいけないが、でもわたしはそう思う。
しかし現実はそうはいかない。各々が主人公であり各々が一人称であり、各々がそう心得ているのだから当たり前だ。
とは先程も言った。
脇役のいない映画やドラマや小説やマンガが一体どんなものであるか。。
どんなノンフィクションだって、「わたし」が創造側に回った途端、少なからずその「わたしは」を彼もしくは彼女として捉えなくては、捉えているからこそ成立する。
要するにこれはまたしてもわたしの【私慾】の話だ。
恥ずかしいのでこれ以上は言いたくない。