保元の乱の遠因? | ティータイム心和むクラシック音楽を聴きませんか

保元の乱の遠因?

保元の乱はよく鳥羽天皇が崇徳天皇を白河上皇の子供を押し付けられて叔父子と嫌ったことを崇徳上皇が恨みに感じたわだかまりが遠因みたいな言われ方をしていますが、崇徳天皇は在位が17年くらいに及んでいて最初からお互いに不信感を持つ間柄とはちょっと考えにくく、こうした男女関係で説明する場合は嘘である可能性が低くないと思われる過去の歴史書も考えるとこの話もかなり嘘っぽいです。
以下も状況証拠に近いですが、当時は奥州藤原氏を巡り、堀河天皇時代は藤原氏を警戒する空気が強く、堀河天皇死後に白河上皇は次第に藤原清衡と協調するようになり鳥羽上皇は更に藤原基衡と関係を深め、朝廷を抜いて直接院と藤原氏が手を結んだようです。しかし、崇徳天皇の時に陸奥国司に藤原師綱がなると師綱は藤原基衡の実質支配を否定して勅による荘園整理を実行し始め、現地で戦いを始めます。勅の権威から藤原基衡は抵抗できずにいましたが、結局師綱は任期中に解任され、鳥羽院近臣の藤原基成が陸奥国司になり朝廷の陸奥支配は実質院に移ります。この藤原氏との関係はその後も続き、保元の乱に至ったと感じます。ただ、摂関家はむしろ忠実、頼長は藤原基衡に近い、むしろ鳥羽院に近い、忠通は藤原基衡との関係を嫌った可能性があり、全てを陸奥との利害関係で捉えることは難しいと感じます。ただ、奥州藤原氏は鳥羽院と結びついたため、保元の乱後は朝廷や平氏とは距離を取ったと感じます。後白河朝廷も源義朝を下野守にした意味は奥州への警戒といつでも奥州に攻めいる態度表明だったと感じます。藤原信頼の武蔵守も義朝の後方支援かと思います。平治の乱はむしろ奥州藤原氏が脅威を和らげるために平清盛を結果的に懐柔して源義朝を排除させた、→その後の二条天皇からも平清盛が距離を取り後白河院政が確立するよう影から手を引いたのは藤原秀衡かもしれません。源頼朝が最後まで奥州攻めに踏み切れなかったのは奥州藤原氏と後白河院政との関係が深かったからではないかと感じます。