楚(ソ)の人達 | ティータイム心和むクラシック音楽を聴きませんか

楚(ソ)の人達

中国の戦国時代に淮河から長江くらいに東西広く領土としていた楚の国は項羽と劉邦で有名ですが(司馬遼太郎の歴史小説読んでますか?)、項羽だけではなく楚の人達は北の黄河周辺の人達から多少異質な人と認識されていたらしく、直情径行で頭に血が上りやすく、憤りを発すると理性のブレーキが効きにくく生命をかけて=生命を軽視して物事に対処するらしく、まるでコテコテの日本人、特に任侠系(笑)の気質と思います。で、楚の人達の一部は天草経由で熊本に上陸して日本人を構成する人達の一部になったと思いますが、このルートはちょうど高瀬辺りが上陸地点だったように私個人的に感じます。そして楚の人達は熊襲(くまソ)として大和や北九州勢力と対峙し、阿蘇(あソ)=阿曾山を神として崇めたと私個人的に感じます。ちなみに、今日読んだ史記の研究に関する本では秦の始皇帝の皇太子?の扶蘇は蘇の字だけではなく始皇帝の楚出身夫人の子供の可能性に言及されていて、疑われてあっさり自決する辺りも冷静そうで意外に濃密な熱い血潮を窺わせます。ちなみに第二王子の胡亥は始皇帝の趙出身夫人の子供の可能性を指摘していて、深刻な後継者争いがあった可能性があるようです。ちなみに扶蘇の後見人の蒙恬は斉の人だったそうです。斉は今の山東半島で、こちらは呪術的な思考の影響が強く残り、黄海(昔は渤海とも言われたらしい)経由で朝鮮半島西部の百済に影響を及ぼしたようです。斉の呪術的な面は邪馬台国の卑弥呼の姿と結び付きます。邪馬台国の属国が博多や壱岐周辺と思われるのも示唆的に感じます。ちなみに朝鮮半島東部の新羅は何故か女性が指導者の時期が長く、文化的系譜がいまいち私には分かりません。もしかしたら、日本で女性が天皇の時期は男子天皇系の中継ぎではなく新羅との外交関係が強い時期だったかもしれません。私個人的には神功皇后は新羅を攻めたのではなく、むしろ高句麗好太王のバックアップで新羅人が日本を占領した可能性を感じています。応神天皇は敦賀神と名前を交換していて、交換された敦賀がツヌガアラシト=新羅系の名前になったことは、応神天皇が新羅系の名前を日本の出雲系?の名前に変えて出自を分かりにくくして感情的反発や新参者への排除や差別意識を緩和する、いや単にヤクザの兄弟の名乗りによる絆の証かもしれません(笑)。