नमस्ते
ナマステー

入院初日の夜、隣のボケ老人が

うるさくて眠れない

イライラが暴走しそうな

頼夢です。

リウマチという病気について

私はよく知りません。

ゆえに、痛みに耐えられず

それから逃げたいという気持ちから

ボケてしまったのかも?


一生懸命、理解してあげようとしている私がいる一方で

睡眠を邪魔されたことに対する

憤りから

私なら、ボケてまで

生きていたくはない。

そう考えてしまう

自己中心的なことを考えてしまう私がいる。

人は、苦しみから逃げることばかりに思考が捉われ過ぎると

正常な判断が出来なくなるどころか

一般的な生活をする事さえ侭ならなくなるのかも知れない。

それは、人が無知である事の証明なのだと

改めて感じている。

どんな人でも、様々な方向に思考というのは拡散しているのが普通である。

つまり、簡単に言うならば
お腹空いたなぁ〜と考える側から、明日の予定を考えたり

同時に近い感覚で、瞬間瞬間に違うことを考えて状況に合わせた行動が出来るのが一般的な人間の思考パターンだと思う。

しかし、痛みから逃げる、
病気の辛い現実から逃避することだけに思考が捉われ過ぎると

夜も昼も関係なく
絶えず現実から逃避することばかりに思考を使うようになり

やがては
言動や行動に始まり
家族や知り合いとの関係や
自分が生きている事さえも

正常に認知する事さえ出来なくなるのかも知れない。

その姿は、まさに奇行としか言うことが出来ない。

本来なら自分の人生の最期の一息まで、様々に思考を巡らせ寿命を全うすることが望ましいのだが

ボケてしまっても与えられた時間が経過しない限り
人は生きなければならない。

無知であることの本当の恐怖とは、もしかしたら自分を失っても生かされてしまうことなのかも知れない。

ボケないことが一番望ましいことではあるが

ボケない為に、一つのことに思考が縛られることがないように

絶えず思考を巡らせ
拡散させる努力

また

無知であることを意識し、自分が無知であることを理解納得するだけではなく、少しでも無知な部分を払拭することに思考を使うことが生きるという事には求められているのたと思う。


ボケても、簡単には死ぬことは叶わない。

ならば

ボケないように絶えず思考を使うこと

それが他人からは無駄に見えても、行うべきことなのだと思う。

ボケても、ボケなくても
長い短いは抜きにして

与えられた時間は
皆に平等なのだから。

生きるという事の本当の理由は
与えられた時間をどう使うのかなのだと思う。

だから、隣のボケ老人がどんなに煩くても私は私に与えられた時間を有効に使う為に、今は少しでも眠ることに集中、努力しようと思う。



頼夢