ナマステー


どーも、頼夢です。


東京は、湿度が高いのですが気温は23度と比較的に過ごしやすいです。


中部地方以西では、今日も猛暑のようでくれぐれも熱中症にはご注意して下さいませ。



ナマステー


namaste


नमस्ते (←文字化けゴメン)



インド文化に関連していなくても、耳にはしたことがある言葉だと思います。


インドやネパールなどで交わされる挨拶として知られている言葉でもあるのですが


私は、インドの方に挨拶する時にナマステーと合掌をしています。


今までは、単なる挨拶という認識でしかありませんでした。


でも、文法的にちょっと調べてみるとちゃんと意味がある。


ナマステー=こんにちは


別に、これだけ知っているだけでも問題はないのですが


意味を知ると、この「こんにちは」にも感情を込めることが出来ることを改めて感じました。


नमस्ते(namaste)


サンスクリット語の辞典で意味をみると・・・


नमस् (namas) には、「敬礼」という意味がある。


ते (te)という語尾には、現在・未来 反射態 3人称単数という分類付けが辞書ではされている。


wikipedia をみると語源のところに「あなたに敬礼する」または「服従する」という意味になると書かれているが・・・


ते(te)の中に含まれている反射態というのは「自分の為に行うこと」を表す時に使うという定義がある。


また、3人称単数というのが表すのは「私」+「一つの物事を表す数」を意味しているので「私がする」という部分を強調している。


インドでは、人称の言い方が英語とは逆で1人称=彼・彼女 2人称=あなた 3人称=私 として表す。


wikipediaに書かれている通りに文法を解釈すると3人称ではなく、2人称となるし、他人の為に行うという形になれば、これは反射態ではなく能動態(他人の為に行う動作)となってしまう。


細かく考えるとwikipediaに書かれていることは間違っている?

という風に思えるのです。


挨拶という認識は、一般的には対個人や対象となるものにすると思われているから、wikipediaに書かれていることも対個人であるなら理解出来る。


では、何故文法的には自分の為に行う動作を表す表現が使われているのか?


ここからは、あくまで私の個人的意見なのだが、これはアートマに対しての挨拶であり、対個人に対する挨拶ではなく、私も含む全てのアートマに対しての挨拶だからなのではと思うのです。


ナマステーという時の作法として、正しいものは合掌した際の親指が胸(心臓)の部分に触れていなくてはならない。


そのように、哲学の師より教えて頂きました。


ムドラ(手印)では、親指をアートマとして表し、胸(心臓)に触れるという部分はカタ•ウパニシャッドでも書かれているように心臓の奥にアートマの住処があるとされていることを踏まえると


私がアートマに対して行う敬礼がナマステーという言葉に本当に込められている意味なのでは?


と思うのです。


単純にこんにちはという意味だけで捉えてしまうことは、アートマに対しても相手に対しても失礼となってしまうのです。


挨拶一つにしても言葉の意味を考えて使うことは、大切なことなのだと思います。


気持ちを込めた挨拶を私は行っていきたい、そう思っています。



頼夢