प्रसाद prasāda


インド哲学を学ばれている方やバガヴァッド・ギーターなどを読まれたことのある方は、耳にしたことがある言葉だと思う。


サンスクリット語で「清らかさ、輝かしさ、親切、恩恵、恩寵」などと日本語に訳される単語。


その他だと、インドの祭祀で神様にお供えした食べ物などを下げて食べる時には、神様からの恩恵と言う意味で使われる言葉でもある。


人は生きていれば、何らかの恩恵を受けている。


しかし、その恩恵というものが何による恩恵なのかを意識している人は少ない。


かつての私もそうだった。


インド哲学を学びながらも、恩恵について意識をしたことが少ない。


それは何故か?瞑想をしてみて思ったのは・・・


अहङ्कार ahaṅkāra =自我(エゴ)が強いからだと思った。


しかし、今年生まれて初めて作物を育てるということをした。


毎日、朝と夕に水をあげて、時には液体の肥料を与えたり、病気や害虫が付かないように、薬を散布したり・・・


こうして種を蒔き、お世話を続けたことで、沢山の実りを得ることが出来た。


野菜は、スーパーでお金を出せば買えるもの。


食材の一種という認識、それしかなかった。


でも、自分で育ててみると色々と大変な部分も多いことを学んだ。


以前、インド哲学の師から「植物のお世話をちゃんと出来れば、沢山のことを学べます。」


そのように教えて頂いたことがある。


哲学の師が教えて下さった「意味」を理解しました。


それがまさに प्रसाद prasāda なのだと理解しました。


そして、これこそがकर्म karma(行為)なのだと思いました。


哲学や学問を学ぶことで知識は増やせます。


しかし、知識は知識でしかないということを知りました。


学んだことや知識を活かし、経験することで初めて知識は智慧へと変化するのだと実感しました。


これも प्रसाद prasāda (恩恵)なのだと思います。


人は、毎日が学びであり・・・


प्रसाद prasāda (恩恵)で満たされている


そのことを意識すれば、如何なる欲にも負けない至福と充足を感じることが出来るのだと思います。