Is the life?
Thing, in which I think about
if express in one word.
It's a repeat of the vagus and meditation.


人生とは?

一言で言い表すなら、それは迷走と瞑想の繰り返しだと思う。


ダジャレではありません。

どうも、頼夢です。


今朝、目覚める前に見た夢の中で誰かに問いかけられているような気がしました。


そして、それをする為にしなくてはならない事についても

寝て居ても、そんなことを考えている私です。


人に何かを教えたい、伝えたいという漠然とした欲求は誰でも持っているモノです。


但し、それをどのようにして伝えるのか?

押し付けでもなく、ただ聞かれたから教えるのでもなく。


人に何かを教える、伝えるというのは本当に難しいと思います。


今まで、インド哲学を勉強してきて学んだことを一つ一つを繋ぎ合わせていくと、その答えとなる全景がボンヤリと見える気がします。


あくまでも、ボンヤリとです。

つまり、まだ私自身確信出来ていないからなのだと思います。


確信を持てないのは、単純に未だ勉強不足であることの証明なので、お恥ずかしい限りですが、取りあえず忘れない為に記事として記しておこうと思った次第です。


人に何かを伝える為の3つの原則を理解すること。


1. स्वाध्याय svAdhyAya

2. प्रवचन pravacana

3. विवेक viveka


この単語が気になる方は、ご自身にて下記サイトで調べてみて下さい。


サンスクリット語ウェブ辞書


人に何かを教える、伝えるという事において

まず一番先にする事は「1. स्वाध्याय svAdhyAya」と呼ばれるモノです。


そして、「1. स्वाध्याय svAdhyAya」のあとは、「3. विवेक viveka」が非常に大切となります。


えっ?順番からしたら、「2. प्रवचन pravacana」じゃないの?

そのように思われるかも知れませんが、違います。


ここで、良く瞑想をしないと迷走をすることになります。

瞑想なく、伝えられたことや教えられたことは、正しく伝わりません。


因みに、インド哲学に於ける瞑想とは、暗い部屋に座ってするアレではありません。


自分自身で、よく考える熟考するという事です。

但し、熟考すると言っても範囲が広くなり過ぎるので、簡単に言うと「見極める」ということです。


この2つの工程、原則を踏んて初めて「2. प्रवचन pravacana」を行います。


コンサルを含めて、望んでいない、求めていないことを教える、伝えることの罪について瞑想しました。


じゃあ、望んでいる、求めている事だけを伝えれば良いのか?

それは、その求めている人に取って本当に必要な事なのか?

それを瞑想した時に、私が決めるのではなく望んでいる相手に考えさせるべきではないか?


双方の意見が合致して、初めて伝えるべきなのではないか?

この世界に生きている以上、やり取りとはエゴとエゴの喧嘩です。


お互いが納得して初めて、お互いに有意義と言えるのであって、そこに妥協が有ってはならないと私は考えました。


妥協は、本当の意味での理解ではないから。


そのように考えると、これからのコンサルも、もっと瞑想をしていかないといけないと思っています。


本当のニーズとは?


それを見極める目を養うまで、もう少し迷走と瞑想を繰り返したいと思っています。