インド哲学で、私が世界の中に居るのか?

それとも、私の中に世界があるのか?


という議論がされます。


さて、あなたならどちらだと思いますか?

あなたは、世界の中の一要素でしかない。

だから、世界がある事によって私は存在する事が出来ている。

若しくは、あなたの中に世界がある。

つまり、私が存在するから世界も存在している。

このロジックは、二元性で考えると中々答えに辿り着かないでしょう。

それこそ、卵が先か鶏が先か?の話と同じだからです。

別のモノだと考えるから、それは混乱を生むのです。


それは、初めから同じ物であると考えれば別に混乱も困惑もしないのです。


ただ、見えている側面の違いが存在しているだけだと気付けば良いだけのことです。


昨日、例のSTAP細胞の小保方さんの共著者である教授先生が、STAP現象を証明する証拠は存在しないと会見を開きました。


実験ノートについて、ハーバードから紹介をされた研究者だから、実験ノートを見せなさいとは言えませんでした。


と仰っていましたが、それは言ってはいけない言い訳だと素人考えでも良くない言い訳だと思います。


それは、強いては私は悪くないと言っているのと同じだからです。

ハーバードからの紹介だから信じたのにって、大学教授の発言にしては幼な過ぎると思う。


もし、仮にSTAP細胞が実在していたとしたら、その称賛は得たい。

でも、実際には無かった。

そうしたら、全部ハーバードの紹介だからとか、小保方さんが実験ノートを見せてくれなかったからとか、他人のせいにしている。


情けないの一言に尽きますね。


何れにしても、彼女がSTAP現象を一回くらいは、見ているのかも知れません。

でも、それは彼女の頭の中で作り出した現象ではなく、幻想だったとしたら?


それを妄信して、様々な偽装をしてしまったとしたら?


もしかしたら、現象は確かに起きたかも知れない。

しかし、それを特許だの利権だのという欲を出したが為に

真実は真実でなくなったのでは?と私は思うのです。


彼女の世界の中で起きた現象は、他の視点側面から見ると幻想でしかなかったのかも?と私は思います。


私の中の世界では、それが絶対であっても、世界の中では、あなたは絶対ではない。


という事の証明なのかも知れません。


世界はマーヤー(幻想)の産物である。


この言葉が示しているのは、二元論では真実は見えないということなのだと思います。