今年最初の土曜講義は、कठोपनिषद्


デーヴァナーガリーの設定、およびサンスクリットの言語設定をしていない人はごめんなさい。

多分、文字化けしていると思います。

なので、ローマ字も書いておきますが、多分ユニコードの問題で上手く表示されないと思います。


kaṭhopaniṣadの講義がありました。


年の初めから、物凄く濃い内容で頭がスーパー!爆裂寸前になりました。(笑)


講義の中で、1つ考えさせられることがありました。


それは、人間の人生に於ける苦しみについてでした。


通常、誰かに「あなたは苦しみを知っていますか?」と尋ねたら、99.99%の人が


何を馬鹿なこと聞いてるの?

そんなこと聞くまでもないでしょ?と眉間に皺を寄せると思います。


しかし、私が尋ねるのは「本当の苦しみ」を知っているか?と尋ねているのです。


人間の身体を含めて、世界というのは物質で出来ています。

人間の思考というのも、エゴを含めてカテゴリー的には物質原理の中に含まれています。


つまり、日常的に痛いとか苦しいとか悲しいとかを感じているのは、物質原理に根付いた私という名のエゴが感じているモノだということになります。


要するに、上辺だけのことであり

それは本質的な、または本当の苦しみではないという事になります。


私は、未だに無知である為に本当の苦しみという物を知りません。

上辺だけの苦しさや辛さ、悲しみや痛みは嫌というほど経験もしているし

知っています。


ですが、不幸にも本当の苦しみは知りません。


何かに執着している時、何か低レベルな願望や欲望に囚われている時には

上辺の苦しみや悲しみ、辛さや痛みに目を奪われます。


例えば、お金が無いから苦しい、美味しい食べ物が食べられないから悲しい、

病気に罹ってしまい、苦しい、痛い。


どの事柄も全てが上辺だけのことです。

そうやって感じているのは、全て私が私だと考えているエゴです。


物質原理に囚われている私というエゴが感じているのです。

エゴというのは、トラブルを望みません。


トラブルを避けて、楽しさや快適さばかりを追い求めます。

でも、楽しさや快適さには”もれなく、トラブルの種”がオマケで付いてきます。


トラブルに会いたくないのなら、欲望や欲求から生まれた楽しさや快適さへの執着を持たなくすることが一番の方法だと言えます。


楽しさや快適さから離れる努力をしていても、中々気付くことが出来なかったことに

今日の講義で私は気付くことが出来ました。


それは、本当の苦しみを知らない自分という存在がいるということにです。


哲学の先生が聖者の願いについて、よく話をされるのですが

その願いというのは、私に本当の苦しみを与えて下さい。という願いだと話されます。


そして、その苦しみと共にその苦しみに対する忍耐力も同時に与えて下さいとお願いするのだそうです。


私は、やっと苦しみって何だろう?という疑問を持ちました。

それは、上辺の苦しみとか痛みとか、悲しみとか辛さではなく


私の根幹に響くモノであり、人生を通して瞑想をするべき課題なのだと

やっと気付くことが出来ました。


私は思います。

何と私は幸せなのだろうと。


このような人生の課題を知る事が出来て、今までに過ぎてしまった時間は

取り戻すことは出来ないけど、その無駄に費やしてしまった時間を本当に無駄にしない為に


今から、しっかりと瞑想をして行こうと思ってます。

限りある人生の時間を大切に使う為に。



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