大学に入ったと同時に、なぞなぞを掲載してくれた週刊誌の編集部でライターとエディターとしての修業を始めました。

 

 

すべてがぶっつけ本番。

頼まれたら「ノー」はいわない。

とにかく取り掛かる。

準備ゼロでも恐れず飛び込む。

 

 

努力しているという実感はありませんでした。

週刊誌の1週間ごとの締め切りという早いサイクルは性に合っていました。

常時火事場の馬鹿力を出して、デスクのオーケイをもらっていたのです。

 

 

インタビューもとくに誰かにやりかたを教わったりもせず、最初から一人でいきました。

そのうち、デスクが面倒くさがる連載小説のあらすじを代わりに書いて、編集部にあらすじファンを作ったりも。

大学の帰りには連日編集部に「出勤」。

4年間、両親からお小遣いはもらわずに済みました。

 

 

最近思ったのは、このころといまと、わたしが仕事に臨む姿勢はなにも変わらないな、ということです。

もしもきょう、デスクに「この人にインタビューにいってきて」といわれたとしても、「はーい」と答えてすぐに出かけていくでしょう。

その人がどこの誰であっても、なにをしている人であっても、「インタビューを取ってくる」という目的さえあれば、なにも怖いことはありません。

たぶん、ダライ・ラマ師でも大丈夫だと思います。

(大きく出たな)

 

 

メジャーな世界でクソ(失礼)度胸を磨くという意味でも、18歳から27歳までのこの修業は最高でした。

芥川賞の選考委員をされている高名な作家のご自宅にインタビューにいき、原稿のチェックで文章の肝要を教えていただくこともありました。

昭和の(!)戯絵師と呼ばれるイラストレーターの連載のアシスタントにつき、愛称で呼ばれて、毎週ピアッツァで家まで送っていただいたりも。

わたしは当時いわゆる「若い女の子」でしたが、編集部の方を含めお会いする方々全員が紳士であったことも書き添えておきます。

 

 

もとをただせば、中学のクラスではやっていたなぞなぞです。

面白いからと編集部に送りつけたら、面白がってくれた編集者がいた。

それだけのことから、12年にも及ぶ縁が始まったのでした。

 

 

わたしがあらすじを代わりに書いていたデスクは、大学でマスコミ講座を受け持つような方でした。

そんな講座のある大学にいくわけでもなく、ライター養成塾に通ったこともなく、もっといえば、新聞社の厳しい入社試験を通ったわけでもないわたしが、そこの会社の週刊誌の編集部で毎週いくつもの仕事を任されていたのは、不思議といえば不思議、ラッキーといえばこのうえもなくラッキーなことでした。

 

 

わたしがいま、ライティングで使っている技術は、すべてこの時期に学んだものです。

歴代の編集長、デスク、編集部員の方々、なかでも、最初に「編集部にきませんか」といってくださったMさんに心からの感謝を送ります。