これは職業柄だから自慢しているわけではないのだけれど、国語の成績はよかった。

小学校では5。

中学では現代国語が10段階の9。

高校1年は10。

高校2年が….

 

 

高校2年の現代国語の先生は石川啄木がお好きだった。

思い入れたっぷりに朗読される。

対してわたしは啄木が嫌い。

先生が音読後に感想のある人いますか、と聞かれると、真っ先に手を挙げた。

 

 

「はい、じっと手を見ているあいだにもっと働けばいいと思います」

 

「はい、ともだちにコンプレックスを抱いたなら、妻と花なんか見ていないでもっとがんばるべきです」

 

 

いまでも手を挙げていいたい。

 

 

「はい、おかあさんが軽かったのは自分のせいではないでしょうか、たわむれにおんぶしたなんていっている場合ですか」

 

「はい、また泣いてるんですか、この人。今度は砂浜で、蟹とたわむれながらね」

 

 

当然のことながら、先生には気に入られない。

わたしが発言したあとに、真面目な優等生を指して模範解答をいわせようとしたりした。

そんなことをされても優等生とわたしは普通に仲がいいからどうってこともない。

模範解答は問題集的に正しいのはわかっているし。

 

わたしはただ、石川啄木が嫌いだったのだ。

先生独特の、溜めと間をたっぷり取ったメロディアスな朗読で聞くとさらにうんにゃりとし、憎まれ口を聞かないではいられなかった。

 

 

結果として、高校2年の現代国語の成績は7。

翌年は先生が替わり、修学旅行でいった奈良興福寺の阿修羅像についての作文も褒めてくださり、成績は10に戻った。

 

 

模擬試験の成績も全国14位だったしね。

ただし、学内3位だったけどね。

ちなみに学内1位は、啄木の授業でわたしの次に当てられていた彼女だった。

 

 

東海の小島の磯の白浜に

我泣きぬれて

蟹とたはむる

 

 

たはむれに母を背負ひて

そのあまり軽きに泣きて

三歩あゆまず

 

 

啄木の「たはむれ」は悲しみに向かう。

わたしもここまで生きてくれば、冗談は抜きに鑑賞できる。

彼の歌を愛する人たちは、自分の悲しみや無力感や後悔を重ねるのだろう。

人の弱さを受け入れるということなのかも知れない。

 

 

わたしはかつて「戯(ざ)れ文」と題したエッセイを書いていた。

江戸趣味が自分の美学だと思っていた20代の頃だ。

落語が好きで、お祭りや浴衣や下駄が好き。

江戸千家の茶道と長唄三味線も習っていた。

いまでも戯(ざ)れる、戯(たわむれ)る、をスタイルとして心のなかに持っている。

 

 

啄木と江戸趣味では話が合わなくてもしかたがなかったか。