檀一雄の「火宅の人」。

自らをモデルに、家庭を捨てて恋愛に走る男を描いている。

 

 

わたしの父もそうだった。

地方に家庭がありながら、母を東京に住まわせていた。

その後事業をつぶし、わたしが生まれてからは三人で東京に暮らした。

 

 

10年ほど前に父が亡くなり、葬儀も終わって実家で香典返しの準備をしているときだった。

思い出話のつづきのように母がいった。

 

 

「あなたがかわいくておとうさんは前の家に帰らなくなったのよ」

 

 

その言葉は重かった。

7歳の春に「わたしたちにはなにか秘密がある」と察して以来、心が晴れたことがない。

父が亡くなっても、それは続くのだ。

母のひとことが心にどこまでも沈んでいくようだった。

 

 

いま考えると、父を失って悲しみの底にあった母には、思い出を美化する必要があったのだろう。

父にはわたしがどれほど大切だったかを改めて伝えたかったのかも知れない。

 

 

 

それから2年後、母は認知症状を呈するようになる。

さらに2年して、わたしは自宅のそばのマンションに母を引き取って介護を始めた。

お互いにとってつらい4年間だった。

わたしには母を嫌うことしか自分を保つすべがなかったのだ。

外を歩くときも、母の手を引いたことは一度もない。

 

 

倒れてからは2年。

最後は老人ホームで眠ったまま息を引き取った。

遺骨は父の入った地方の墓には納めず、東京湾に撒いた。

 

わたしたち三人それぞれが半生をそこに費やした秘密。

家に電話がついたとき、わたしは受話器を取っても「はい、もしもし」としかいえなかった。

父にかかってきた電話か、母にかかってきた電話かわからないから、苗字は名乗れないのだ。

 

わたしが高校に上がった年、父は前妻と離婚して母と結婚し、わたしたちは同じ苗字になった。

でもそれも、わたしにとってはほとんど意味のないことだった。

異母きょうだいたちへの罪の意識はそこからさらに強くなる。

 

わたしは秘密を生きてきたし、わたし自身が秘密だったともいえる。

隠された秘密ではなく、外で生きていかなければならない秘密だった。

そんな自分への特別視をやめるときがきているのに、わたしはなかなか気づかない。

 

だからなんなの。

だからどうだっていうの。

 

両親は、わたしの、おとうさんとおかあさんなんだ。

やっとそう思えるようになってきた。

ほかにはなんのいきさつもない。

7歳までそうだったのと同じだ。

 

わたしが愛されて幸せでいても、誰も傷つかない。

そう信じられるまで、もうあとほんの少し。

 

 

 

 

羽生さくる/パーソナルエディター

 

東京都品川区生まれ。

東京女子大学日本文学科在学中からエディターとして仕事を始める。

1988年「部長さんがサンタクロース」(はまの出版)でエッセイストとしてデビュー、「お局さま」の言葉を世に送り出す。

以来、単行本を8冊出版。

現在はエッセイストとして執筆のかたわら、文章教室を主宰。

これまでに指導した生徒の年齢は14歳から88歳までと幅広い。

「自分らしく、自由に」をモットーに、のびのびと自分の文章が書けるように見守りながらプログラムを進めていく。

 

 

 

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