画家や音楽家が羨ましいと思っていたころがあります。

自分のなかに湧き上がってくる言葉にならないものを色や形や音にできるから。

 

 

抽象画で主題を描いてある縁のところにちょこっと違う色が塗ってあったりして、

あ、ずるい、こういうことは文章ではできない、と思ったものでした。

わたしはこういうふうに考えているんだ、わたしにとってはこれが意味があること、

と書いたはじっこに、でもね、こんなわたしもいるんだよ、とは書けない。

当時はそう思っていたので。

10年くらい前ですね。

 

 

音楽は感情そのものを音とメロディに託せるところがずるい。

泣き出す前の「ううう」っていうときの腕から上がってくるあの感じも、

比喩なしにそのまま表せるのですから。

言葉だといちいち言葉にしなければなにも伝わらない。

当たり前のことですが、歯がゆい思いがしました。

 

 

言葉になる部分だけを言葉にしていても気が済まないわけです。

言葉にならないものを言葉にするのが文章を書く醍醐味。

プロフェッショナルとしての仕事のしどころでもあります。

 

 

「言葉にならない」という大気のようなぽわあっとしたものの中から、

言葉の網で言葉をすくってくるという、なんともややこしい、

あるいはあいまいな方法で、なんらかの言葉をそこに出現させる。

 

 

仏師は木の中に埋まっている仏様を掘り出すのだといいますが、

わたしたち文筆家がしているのは真空の中で瞬間姿を見せる分子の配列を写しとるというか...

ほんとうにややこしくなってきたのできょうはこのへんで。

 

 

いまは羨ましいとまでは思わないのですが、やはり、絵画や音楽には憧れます。

なんといっても翻訳がいらないし。

でも、わたしも「言葉にならないもの」を自分の手段で表していることにおいては同じなんだ、という自信が持てるようになりました。

たまたま言葉で表しているけどね、って。

 

 

ああ、きょうはやっぱりややこしい。

 

 

 

 

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