頭が悪い…

ゴミ   クズ



生きているのが、恥ずかしい。


読解力がない

記憶力が悪い

努力もできない

言われたことを直せない

心が弱い

失敗ばかり

口先だけ




いや


後悔する資格すらない

泣く権利もない

落ち込む事だっておこがましい

俺は何一つ前進しちゃいない



ピケティの非現実的な前提

1 はじめに

⑴『ピケティの非現実的な前提』。
これは、日本経済新聞社の平成27年4月11日付の経済コラム(著・魔笛)の表題である。
このコラムでは、最近注目されたピケティの『21世紀の資本』で主張される、「 r > g ゆえに、経済格差は拡大する」という命題に対する反論が掲載されている。

⑵ まず、「 r > g ゆえに、経済格差は拡大する」とは、どういう意味なのであろうか。

「r」とは、資本収益率を意味する。たとえば、r(資本収益率)=5%とすれば、1億円の資本(例えば、アパート)を持っている人は、一年で1億円×5%=500万円の運用利益(例えば、家賃収入)を得られる、ということになる。いわば、お金持ちの収益率、である。

一方、「g」とは、経済成長率を表す。たとえば、g(経済成長率)=4%とすれば、年収500万円の人は、翌年の年収は500万円×4%=520万円となり、さらにその翌年の年収は、520×4%=548万円となる、ということになる。いわば、労働者の収益率、である。

そうすると、このお金持ちの収益率「r」が、労働者の収益率「g」よりも高ければ、いくら労働者が頑張って働いても、一生お金持ちより豊かになることはなく、むしろ、金持ちはますます金持ちになるだけで、格差は次第に拡大していくのではないか(①)。

これをもとに、実際にピケティが、全世界の過去の文献を調べてみると、今までの経済史の上では、「 r > g 」が成り立つことが判明した(②)。

そして、「①②より、今までの歴史上、金持ちはどんどん金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になってきたのである」。

これが、「 r > g ゆえに、経済格差は拡大する」という意味である。

⑶ 何か、おかしい?
このピケティ理論、確かに、「おお!」というインパクトはあるし、テレビでも頻繁に取り上げられ、話題性もある。しかし、何かがおかしい?
ある超エリートの経済学者が、「ハーバードで、ピケティさんの授業受けましたけど~、昔っからこんな社会主義的な主張するんですよね~。その時から、何を言ってるかよく分からなかったです。」「ピケティさんは、過去のデータから、r>gを導き出したといいますが、不動産市場しか調べていないから、必ずしも正しいといえない」などと言っていたが、そんな「社会主義者だ~」とか「調査不足だ~」とか、そんな説得力のない批判より、もっと的確にズバッと批判できるはずだ。
だって、だって…、現実は違うから。
現在フォーブズに載っている著名な億万長者トップ100は、そのほとんどが一代で巨万の富を築いた人たちだ。ビル・ゲイツ、w・バフェット、ミッタル、孫正義、柳井正…。先祖の財産を引き継いで、それを賢く運用して、ますますお金持ちになっている人なんて、ほんの少数だ。50年前の長者番付と今の長者番付とを比較してみれば分かる。資産家など、3代続けばいいほうだ。かつて巨万の富を築いたロックフェラー一族なんて、今は見る影もない。

⑷ 批判の論拠
やや稚拙ではあるが、上記のような反例で、既に十分な論拠を示しているとは思う。相手方の主張に一つでも例外があることを指摘すれば、それは立派な論破だからである(数ⅠA参照)。
しかしながら、もう少しかっこよく経済学上、論理上の問題点を指摘して批判したいにゃ~、とも思っていた。そんな折、上記コラムが寄稿された。そこで、僭越ながら、僕が若干の説明を加えつつ、上記コラムを紹介したいと思う。

2 コラムの内容
⑴ 第1の根拠
まず、コラムでは、「所得成長率gと比較すべきは、資本収益率ではなく、資本収益の成長率である」と批判する。
この批判は、分かりづらい上に、決定的とは言えない。第2の根拠が決定的なので、次段落はあえて読む必要はないと思われる。

これは、例えば、資本収益率r=5%、所得成長率g=4%で、r>gを満たしていたとしても、1億円の資本家は1年で500万円を得るが、2億円の高給サラリーマンは翌年800万円増の2億800万円の収入を得ることになる。これは、r>gでも、資本家よりサラリーマンの方が稼ぐことになり、「経済格差は拡大する」という命題に反することになる。
したがって、1億円の資本家が1年に得る利益を500万円で固定すると、経済格差は逆に縮まる可能性がある。そこで、資本収益率ではなく資本収益500万円の成長率を5%とすれば、命題通り経済格差は開く。具体的には、資本収益の成長率5%かつ所得成長率4%だとすれば、56年後には、資産家の資本は約16億円、高給サラリーマンの収入も約16億円と同値になり、その後5%-4%=1%分の差で、年々格差が拡大していく。

⑵ 第2の根拠
第2の根拠は、「この議論は、資本家が収益を一切消費せず貯蓄することが前提である。」「それだけではない。労働者の貯蓄も前提から排除している。」「結局、この議論は、所得の全てを貯蓄する者と消費する者の格差が広がると言っているに過ぎない。これはトートロジー(同義反復)だ。」である。
そうなのだ、ピケティの主張の何が不自然かというと、金持ちは無駄遣いをせず常に資産運用に成功する一方、貧乏人は貯金も投資もできない、という前提だ。この前提からは、r>gだろうが、r≦gだろうが、金持ちはどんどん金持ちになるし、貧乏人はますます貧乏人になる。要するに、有能な者は富み、無能な者は貧するという当たり前の原則を、わざわざ有能=金持ち、無能=貧乏人とすり替えて、ややこしくしたに過ぎないのだ。
これこそが、ピケティ理論に対する最大の批判であろう。
実際には、金持ちも無駄遣いをして没落するし、貧乏人だって金を貯めて投資を始めるのである。

3 まとめ
以上より、ピケティの主張は、非現実的な前提の上に成り立っている。
とはいえ、経済学というのは、ほぼ全てが非現実的な前提をもとにしている。つまり、経済学にとって大事なことは、現実的か否かではなく、非現実的な前提の話だとしても、尚、現実社会について深い示唆を与えてくれるか否か、なのである。
こういった観点から、改めてピケティの主張をみるに、


やっぱり僕には無益な主張にしか思えない。


クソの役にも立たない。むしろ引っ込む。便のキレが悪くなる。
使い道は、格差厨や貧困厨の新しいプロパガンダくらいで、それ以外に、有効活用できる場面が全く思いつかない。そして、この手のプロパガンダは、害にこそなれ、利を生じるものではない。


というわけで、徒然なるままに、ピケティを斬ってみたが…、こんなことをして、僕にプラスになるんだろうか。社会のためになるんだろうか。
僕は、いったい何をしているんだろうか。


ちなみにこれを書いているのは、三流大学卒、三流ロー卒の30歳ニートで、5月の司法試験もピンチな男である。デタラメなことを書いている可能性があるので、そこのところは自己責任で。


もう自分を責めるのはやめよう。
全然勉強がはかどらない。


考え方を変えよう。

1歩ずつ1歩ずつ距離を縮めていくんだ。

①サックリ司法試験に受かってしまう人やエリート商社マンと、僕との間には、1万歩くらいの差があるだろう。
②仁科仁美との婚約を破棄した年商150億の米山社長や、観月ありさと結婚した年商150億の青山社長と、僕との間には、10万歩くらいの差があるだろう。
③Facebookのマークザッカーバーグと、僕との間には、1000万歩くらいの差があるだろうか。

1日1歩ずつでもいいから、距離を詰めていければいい。
1日1日を無駄にせず、とにかくこれ以上、距離をあけられないようにするんだ。

「確かな一歩の積み重ねでしか遠くへは行けない」(イチロー)のだ。
もう少し地に足をつけて地道に頑張ろう。



さて、これからの計画を考える。

1 勉強時間

恐らくもう今年の合格も無理だ(合格確率は10%程度か)。

よって、400日後の2016年合格を目指す。
(一応、今年の司法試験は受けるつもりだが)


今年の6月は、1ヶ月ほどアメリカに滞在することになっているし、
7・8・9月は、中小企業診断士の実務補習があり、そこそこ忙しい。

よって、400日間の勉強時間は4000時間とする。


内訳は、
①民法 1000時間 (25%)
②刑法 600時間 (15%)
③憲法 600時間 (15%)
④商法 400時間 (10%)
⑤行政法 300時間 (7.5%)
⑥民訴 400時間 (10%)
⑦刑訴 400時間 (10%)
⑧労働法 300時間 (7.5%)

合計 4000時間 (100%)
とする。


2 勉強内容

問題は何をどうやるか、だ。

基本書中心主義はやめる。
予備校教材中心にする。

学校の先生方に言われ、基本書を読むようになり、基本書が好きになった。この発見は、以降の僕の人生を豊かにするだろう。
しかし、「新」司法試験では、民訴や民法を除き、基本書は無意味だ。
むしろ有害ですらある。リーガルクエスト記載の定義や要件を書いただけでも、バツをつけられたことが何度もある。結局は、予備校的記述が最も「試験上は」穏当なのだろう。

というか、基本書を読んでさえいれば何とかなると考えていたのが甘かった。
司法試験は「法律学」の試験ではないのだから。

こういうところに早期に気付ける人が、「頭がいい」ということなのだろうなぁ。。。


とはいえ、司法試験は法律学の上にあるものだから、全く勉強しないというわけにもいかない。
そこで

①法律学(学者本)1に対し、司法試験(予備校本)2の比率で勉強をする。

また、

②論証パターンを作る。

論証パターンについては批判も多いが、2回目の司法試験を目前にして、気づいたことがある。
どう考えても、論証パターンは有用だ。
⑴2時間という制約がある状況下では、機械的反射的に記述することによる時間節約が大いに有効であるし、⑵十分に理解している者による現場作成の記述よりも、不十分な理解しかしていない者による暗記型の記述のほうが、高得点になる傾向が強いからだ。

さらに

③とにかく書く。

「とにかく書く」論には、かねてより否定的だった。
書けないということは、理解してないということであるし、書けるということは、理解しているということでもある。
そうすると、「書く」ということは、理解しているか否かの確認作業に過ぎないのであって、重要視すべき作業ではない。すなわち、「理解すること」と「書くこと」というのは、原因と結果の関係であり、結果ばかりを繰り返すことはナンセンスだと思っていた。そんな時間があるなら、「理解すること」に時間をかけるべきだと。
例えば、ギャグはどうだろうか?とにかくギャグを言っていれば、面白くなるだろうか?「面白いことを思いつく能力」の結果が「面白いギャグ」なのであって、「面白いことを思いつく能力」を鍛えない限り、いくら「ギャグ」を連発しても「面白いギャグ」を言えるようにはならないだろう。


しかし、上位合格者・短期合格者をみると、その多くが「とにかく書く」という勉強方法を重要視している。
僕ももう、理屈をこねている場合じゃないので、結果を出した人達の多くが「とにかく書く」を実践しているのなら、ガタガタ言わずに素直に真似するしかない。

よって、僕もとにかく書く!
いろいろ書店で探したが、問題集は、論文の森が良さそうだ。これを日課として書くようにしよう。
まぁ、今年の試験までは、過去問を周そうと思うが。


以上のような感じで、あと400日頑張ろう。
問題は、自分のクズさ加減を直視してしまい、僕の精神が壊れるのはいつか、ということだろう。
出来れば、自分を責めたり現状を嘆いたりせず、やるべき事を1日1日着実にこなしていき、結果を出し、一刻も早く今まで僕が迷惑をかけた人たちに償いをしたいものだ。