さて戦後の日本人はどうしてこのような嘘、捏造に当たる歴史について簡単に受け入れてしまうのだろう。それは学校で明治維新以降のわが国の真実の歴史がほとんど教えられていないことによる。明治維新以降わが国の先人」たちが、わが国を守るために血と汗と涙を流した感動の物語がほとんど教えられていない。

 戦争の悲惨さを教えると言いながら、日本軍の極悪非道ぶりばかりを強調するような内容になっている。これでは子供たちは、軍というのはろくでもないものと思い、わが国を敵視するようになることもやむをえない。税金を使って反日教育をやっているようなものである。

 それは戦後のアメリカによる占領政策から始まった。

 アメリカによる占領政策は、日本が2度と再びアメリカに戦いを挑むことがないように、徹底的に日本を改造するものであった。(ウォーギルトインフォメーションプログラム)と呼ばれるもので、その中に公職追放というのがあった。

 昭和21年からは大々的な公職追放が始まった。日本政府の要職にある人、大学教授や教師などが次々と20万人以上も追放された。20万人以上も追放されるのだから当然その穴埋めが必要になる。穴埋めのために戻ってきた人の中には戦前追放されていたある種の思想を持った人たちが多数含まれていた。いわゆる左翼と呼ばれる人たちである。

 東京帝国大学、京都帝国大学などの教授になった人たちの中には、自分の左翼の弟子をたくさん連れてそれぞれの大学にもどった人たちが多くいた。これらの人たちは入学してくる学生に左翼思想を植え付け、社会へ送り出すとともに、戦後新設された新しい大学の教授などに推薦していった。

 このようにして戦後の日本社会の中に

左翼思想を持った人たちが次からつぎへとおくりこまれていったのである。大学を卒業している人の多くは、官公庁でも経済界でもリーダーになることが多い。リーダーが左翼思想に染まればその部下たちも次第に同じ色に染まる。こうして戦後日本の左翼化傾向が逐次強化されていった。

 全体が左翼化すれば自分が左翼であることも分からなくなる。今の日本には無自覚左翼が多数存在し、それが日本社会に数々の問題を引き起こしている。左翼というのは徹底的に日本の伝統的価値を否定する。古き良き日本がどんどん失われていく。


ふぁしすと党の叫び


靖国神社で祖国防衛を誓う

 昭和27年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約を結んで戦後6年半ぶりに独立をした。戦争は国際法上は講和条約の締結を持って終わる。その時点で戦争中のことは御破算となる。

 講和条約を結んだのだから、いわゆる戦犯といわれ牢獄に拘束されている人たちも当然解放されるものと多くの国民は考えた。しかし解放されなかった。講和条約の第11条があるからである。そこには(日本政府は、戦犯とされ禁固などの刑期を与えられた人たちの刑期を守ること)と書いてあるからである。

 そこで戦犯釈放の署名運動が起こった。そして4千万人以上の日本人が署名した。当時わが国の人口は8千万人くらいだったので大人はほぼすべての人が署名したといってよい。なんと本署名運動をリードしたのは日本弁護士連合会である。

 さらに戦犯釈放の国会決議に向けて国会議員が動き始めた。その結果昭和27年中に衆参両議院でほぼ満場一致で戦犯釈放の国会決議が行われたのである。そして本国会決議を実施すべく奔走したのが、なんと日本社会党の堤ツルヨという女性議員だった。


ふぁしすと党の叫び

国際法違反の講和条約
 また戦犯といわれる人たちが拘束されていた巣鴨の刑務所には当時の芸能界の超一流どころが、気の毒だということで毎日毎日交代で慰問に行った。長谷川一夫、渡辺はま子、藤山一郎、笠置シヅ子、市川猿之助、徳川夢声、柳家金語楼、辰巳柳太郎などの人たちが、演劇、歌謡、舞踊、落語、漫談、曲芸、浪曲、講談などで戦犯といわれる人たちを励ましたのである。

 それが当時の日本国民の戦犯といわれる人たちに対する感情だったのである。(A級戦犯)はけしからんと思っていた人たちはごくまれだったのである。

 サンフランシスコ講和条約のこの条項は元々国際法違反であると言われている。講和条約締結後も敗戦国を拘束することはアムネスティ条項違反である。わが国は、連合国から、国際法違反の講和条約を押し付けられたのだ。当時わが国が独立するためにはやむをえない措置であった。

 しかしわが国は本条約を律儀に守った。11条2項には、日本が戦犯と言われる人たちの刑期を変える場合には連合国2ヶ国以上の同意を必要とするとある。

 日本はこの11条2項に従いながら昭和33年の8月30日までかかって戦犯といわれる人たち全員を解放したのである。日本がサンフランシスコ講和条約違反など全くしてないことも理解しておかなければならない。

 歴史をみるには2つの立場がある。1つはこの国を断罪する立場で歴史を見る見方である。もう1つはこの国に深い愛情を持ってみる見方である。普通、多くの国は後者の見方で自分の国の歴史を見ていることが多い。しかい、日本の学校で教えられている歴史は日本を断罪する立場で見ているのではないか。これが日本人が自信を失う大きな原因となっている。

 それでも経済が好調なときには日本人は自信にあふれていた。しかしいったん経済が行き詰ると、日本の全てが悪い、時代遅れだとなってしまう。

 私は平成14年に統合幕僚学校長になって以降、靖国神社の春、秋の例大祭に制服で参拝してきた。靖国神社からの招待状は東京周辺にいる陸海空の将官に発送されうようであるが、ほとんどの場合総務課長などが代理で出席している。しかし私は時間と状況の許す限り私自身が出席するようにしてきた。



ふぁしすと党の叫び

 当初は靖国神社から本当に空将である学校長がくるのかと訊いてきたが、やがてそのようなことを訊かれることもなくなった。

 幕末以来、国を守る礎となった先人へ感謝を捧げるとともに、私自身、日本を守る誓いを新たにするためだった。日本人として先人の御霊に感謝するのは当然のことであると思っている。

 歴代総理大臣は戦後40年間靖国神社に参拝を続けてきた。しかし中曽根首相が昭和60年には8回も靖国に参拝しながら、翌昭和61年中国への配慮から靖国参拝を中止した。これが靖国問題をこじらせるスタートである。

 その後、小泉首相が平成13年に参拝するまで15年間、橋本総理の1回の参拝を除き、総理大臣の靖国参拝は途絶えることとなった。そして、小泉純一郎首相以降、いま再び総理大臣の靖国参拝は行われていない。

 その最大の原因が(日本は侵略国家である)という思い込みと、中国や韓国に対する(外交的な配慮)にあることは自明であろう。これが誰に気兼ねすることなく実施できるようになるまでは日本の戦後は終わらないのかもしれない。

 いずれにしろ日本政府がこれを乗り越えない限り、日本の歴史は捻じ曲げられ続けるであろう。その結果国家安全保障の体制はいつになっても完成しない。


第2章 完  第3章 憲法と核について へ続く

f【読まれた皆様もいらしゃると思いますが、ぜひ、多くの日本国民に読んで頂きたいと思います。

第1章から第3章までになります。本日は第1章より。】


第1章 解任、そして国会へ


11月15日の産経新聞によれば、防衛大臣の指示で航空自衛隊第六航空団(石川県小松市)に対する監察が実施されているという。第六航空団はかつて私も団司令を勤めたことがあるF15戦闘機を擁する日本海側唯一の戦闘航空団である。

 監察の趣旨は、今回の私の論文問題で、第6航空団には多数の応募者がいたということが発端で、論文の表現に関する異例の監察となっている。また、市ヶ谷の防衛省でも自衛隊の教育が村山談話を踏まえたものになっているかどうか厳しい精査が始まっているという。

 こういう話を聞くたび、私は心が痛む。これまで私を信じてついてきてくれた部下たちが、私の行動で苦しめられているという。現職自衛官のみなさんには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。【貴方は英雄扱いされていいでしょう。でも私たちはどうしてくれるのですか】という後輩たちの声が聞こえてきそうだ。

 しかし私は今回の更迭事件をなんとも不思議だという感覚で受け止めている。私は端的に言って【日本はいい国だった】と言ったのだ。すると日本がいい国とは何事だ、政府見解では悪い国になっているんだ、ということで航空幕僚長を解任されてしまった。

 野党民主党は、私の任命責任を追及している。どうして日本がいい国だったと言う様なものを航空幕僚長にしたにかというわけだ。裏を返せば、日本の国はろくな国じゃなかったというような人物を任命しなさいと言っていることになる。妙な話である。これが日本の国益を守る国会議員の発言だろうか。

 マスコミでは私の論文の内容を検証することはほとんどなく、自衛隊トップが文民統制(シビリアンコントロール)に違反した重大事件としてのみ報道される。クーデター前夜だという馬鹿げた意見もある。何とか私を危険人物に仕立て上げたいようだ。

 文民統制に違反したと言われれば、私には、そうではないという言い分はあるが、触れれば長くなるので、ここでは私が解任されたこと自体が、文民統制が立派に機能している証であるとだけ言っておきたい。

 11月3日の夜、私は一人でタクシーに乗って東京・東銀座の時事通信本社に向かった。そこで開かれた私の自衛官退任の記者会見に臨むためである。

 時刻は午後8時を回っていた。このような形で41年余に及んだ自衛官としての生活に終止符を打つとはつい数日前までは思ってもみなかった。

 私が務めていた航空幕僚長という職務は、日本の防衛にあたる陸海空の自衛隊のうち、航空自衛官5万人のトップである。法律上、航空幕僚長は防衛大臣のスタッフだが、大臣の命令は航空幕僚長を通じて執行されることになっており、実質、航空自衛隊の総司令官であり、隊員たちもそのように認識している。

 この航空自衛隊を指揮していた私が、自衛隊を去るにあたって、通いなれた東京・市ヶ谷の防衛省ではなく、報道機関である時事通信社の会議室でお別れ会見をすることになったのである。

 私は長い自衛隊生活を通じて何があっても動じない自分を形づくってきたつもりだ。有事に備えるのが国防にあたる自衛官の最大の覚悟であり、任務なのだ。だが、その夜、心がみだれなかったといえば嘘になる。

 陸海空の幕僚長や事務次官が退任するときは、省の玄関に職員が並んで送り出されるのが慣例である。それに先立って防衛大臣からの辞令書交付があり省内で離任式を行い、離任の辞を述べる。しかし、私にはそのいずれも許されなかった。もちろん、総理大臣に対する挨拶も皇居における記帳も叶うはずがない。

 

登庁不要と連絡が

 私は航空幕僚長を解任されたあと、メディアの取材を避けるため文化の日につながる三連休を都内の某所で過ごしていたが、連休明けの11月4日には登庁して辞令をうけるつもりであった。少なくとも私には空幕を通じそのように通知されていた。解任はきわめて残念であるが、男には引き際の美学も大切だ。

いつまでも職に恋々とするような女々しいまねはしたくない。覚悟は固まっていた。

 しかし、11月3日の夕方5時頃になって航空幕僚監部を通じ11月3日付で定年退職という連絡が届いた。

 何と私が知らぬ間に私は3日の午前零時から制服を脱いだ民間人になっていた。4日は登庁不要との連絡である。私は祝日であったが防衛省に出向いてせめて記者会見だけでも開きたかった。もう制服姿を皆さんに見てもらうのは今日が最後になる。しかし、それも叶わなかった。

 仕方なく私は長年親しんだ制服ではなく背広で防衛省の記者クラブの幹事社だった時事通信社にセットしてもらった記者会見に臨んだのである。

 辞令書は3通あった。一つは10月31日付で航空幕僚長を解任し航空幕僚監部付とするもの、2枚目は、航空幕僚長解任により定年年齢が62歳から60歳に引き下げられ、すでに私は60歳に達しているため、11月30日まで定年を延長するというもの、そして3枚目は定年延長の期間は11月3日までとするというものであった。そのいずれにも浜田防衛大臣の黒痕鮮やかな署名があった。


愛国心こそ防衛の基盤

 解任のきっかけは、全国でホテルを展開するアパグループの(真の近現代史観)と題する懸賞論文に応募して最優秀賞に選ばれたことである。審査委員長は渡部昇一氏だった。

 応募論文で私が主張したかったことは、わが国は古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国であり、決して(侵略国家などではない)ということである。当時の列強といわれる国々との比較で言えば、わが国は極めて穏やかな植民地政策を実施し、国際法に則って行動していたのである。

 しかしわが国を立派な国だと言ったら片方からは最優秀だと言われたが、防衛省からは首だと言われてしまった。

 自衛官生活を継続したいのなら、日本はろくでなし国家だと言い続けなければならないようだ。この国は一体どうなっているのか。

 シナ事変(日中戦争)のきっかけのひとつと言われる盧溝橋事件にしても、中国軍が最初に発砲したことは今では明らかになっている。侵略どころかむしろ日本は戦争に引きずりこまれた被害者なのである。

 ところが、大東亜戦争が終わったあと、勝者である米国をはじめとした連合国は東京裁判で日本に戦争責任のすべてを押し付けたのである。

 これが裁判とは名ばかりの復讐劇であったことは今ではよく知られている。

 東京裁判はマッカーサー条例という事後法で裁かれた。近代国家においては法律の遡及はあってはならないことである。裁判官11人はすべて連合国から選出された。けんかをした当事者のうち勝った方が負けた方を裁くのでは公正な裁判には成り得ない。

 さらに東京裁判を実施させたマッカーサーが、1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本は安全保障のため戦ったと証言し、日本の立場を弁護している。

 それにもかかわらず、(日本は悪い国だ)(侵略国家だ)という占領軍によるマインドコントロールは払拭されることなく今日に至ってしまっているのである。日本人はまるで呪いにかけられたように(日本は侵略国家である)と思い込んでしまっている。

 この戦後の呪縛というしかない自虐史観が、わが国の安全保障体制の確立を困難にしているのである。日本の国は悪い国だと教えて立派な日本人が育つだろうか。誰が悪い国を命をかけて守ろうとするだろうか。防衛力の基盤は愛国心なのである。

 国の防衛に責任を持つ制服組のトップとしてこうした国家の現状に関心を有するのは当然のことであると思う。


これは憲法違反ではないか

 私は最優秀賞となった論文を防衛省幹部の何人かに自分で伝えて回った。甘いといわれるかもしれないが率直に言ってそのときは、それほどの問題になるとは予想していなかった。以前にも隊内誌に似たような見解を表明していたし、私は会合の挨拶などでもしばしば、日本をひたすら罵る自虐的な歴史観を批判し(輝かしい日本の歴史を取り戻す必要がある)と発言していたからだ。

 あとで述べるように2004年統幕学校研修団長として中国を訪問した際にも、中国側と論争した。その内容は外務省の公電により日本政府に知らされ、私も公電を読んだし、防衛省の中でも話題になった。

私は中国側に対し今回の論文と同様な主張を行っていた。日本の国益を守るために発言したつもりであるが、あれも処分の対象だったのだろうか。

 私は自ら航空幕僚長の辞表は出さなかった。国家のために悪事を働いたと思っていないからだ。

 私は論文では全く(村山談話)には触れていない。また現職時代、公の場で村山談話を批判したことも一度もない。私は村山談話に違和感を感じていたが、政府の職員としてその存在を認識していたので、この政治声明を直接批判しなければいいと思っていた。

 しかしそれによって言論の自由が奪われることになると、これは憲法違反ではないかと思えてくる。空幕長の立場で言うことが適切でないという批判があるが、政府の高官になればなるほど、この国が悪い国だったと言い続けなければならないというのは、どう考えても腑に落ちない。

 国防とは命をかけて外敵から国家と国民を守ることである。国家の最後の拠り所なのである。私たちはそのことにプライドを感じて日々任務に精励している。

 もし国防の体制に関して発言したからと問答無用で解任されるとしたら、誰も何も言えなくなってしまう。それとも私たち制服組には言論の自由は認められていないとでもいうのだろうか。

 こうして私は栗栖弘臣統幕議長が昭和53年(1978)に解任されて以来、初めて解任された将官になったが、新聞やテレビのバッシングは予想以上だった。

 とくに朝日新聞は社説で(ぞっとする自衛官の暴走)として(こんなゆがんだ考え方の持ち主が、こともあろうに自衛隊組織のトップにいたとは、驚き、あきれ、そして心胆が寒くなるような事件である)と書いた。

(日本は侵略国家ではない)という私の主張にここまで過剰に反応するとは、こちらがぞっとさせられた。

 とにかく内容に立ち入らずに入り口で議論を封じてしまう、あちら側にいる連中のいつもの戦法だ。

 

寛大だった日本の植民地政策

 私は航空幕僚長を解任されたが信念は変わらない。

 信念で書いたことだからこそ辞表を書かなかったのである。

 今回の懸賞論文で書いたことはすべて私が歴史の真実だと信じてきたことだし、国内でも中国訪問でも実際にいってきたことなのである。

 わが国では長い間、制服自衛官はモノを言うなという雰囲気があった。

 しかし、私は、政治が方針を決定しやすくするために積極的に発言するのは制服組の責任であると感じていたのである。

 私が世間に対して制服姿で積極的に発言するようになったのは将官になってからだ。将官の責任は、自衛隊の中の仕事よりは、外圧と戦うことであると認識していたからである。

 東西の冷戦は遥か15年以上も前に終結したが、日本国内においては相変わらず冷戦構造が継続しているというのが私の認識であった。日本人でありながら日本国や自衛隊を貶めたい人たちが多すぎる。その認識は今も変わらない。

 平成20年5月に私は東大の五月祭に参加し安田講堂での講演は自衛隊の高級幹部としては初めてだったという。

 そこで私は日本周辺の軍事情勢や自衛官の任務について話すとともに旧日本軍や満州、朝鮮、そして台湾での日本統治に実態、また旧日本軍を世界の人々はどう見ていたかを数多くの例を引いて述べたのである。

(戦前の日本軍は非常に悪いことをしたといわれますが、実際はどうだったのか。日本軍が悪かったという話もあるが、そうでない話もあるんです。皆さんには是非、両方を知っていただいて、どちらが本当なのかということをよく判断してほしい)と歴史に事実を淡々と話していった。

 例えば日本は中国人、朝鮮人を日本の陸軍士官学校に入れたこと。朝鮮半島出身も洪思イク中将や金ソクウォン大佐は朝鮮名のまま入学し軍功を挙げている。李王朝の李ウン殿下も陸士卒である。

 中国の蒋介石、蒋介石の参謀もそうだ。但し、蒋介石は予科のみで士官学校の本科にはすすまなかったようだ。

また、帝國大学の話も取り上げた。日本は朝鮮半島や台湾、満州に学校をたくさん作ったが帝国大学はその象徴だった。

 帝国大学は全部で9つ。最初につくったのは、もちろん東京帝国大学、2番目は京都帝国大学、そして6番目が京城帝国大学、7番目が台北帝国大学、その後。大阪帝国大学、名古屋帝国大学と続いた。つまり日本は大阪、名古屋よりも朝鮮半島や台湾での帝国大学開校を優先していたのである。こうしたことは、インドを統治したイギリスやインドネシアを統治したオランダなどにはなかったことである。

 さらに義和団の乱の鎮圧や日中戦争での日本の軍規の厳しさなどに対するヨーロッパ諸国のメディアや人物の限りない称賛を紹介した。

 そして私は東大生にこう述べた。

(皆さんには是非、日本の暗黒な面ばかりをみないでよいところを見て、そしてしっかりとした使命感をもって、この国のために頑張るリーダーになってほしいと思います。)


中国幹部と歴史討論

 平成16年(2004)、私は中国を訪問した。統合統幕学校43期一般課程学生を引率しての海外研修だった。私にとっては初めての中国訪問で、総参謀部の建物は防衛省の建物を凌駕する豪華な造りで圧倒されてしまうほどだった。

 私は参加した学生たちとともに総参謀部ナンバー2の範長龍参謀長助理と面談した。

 面談で範中将は歴史認識のついてとうとうと語り始めた。

 彼は中国の藩陽軍管区、すなわち旧満州の生まれで、子供のころから両親や親族から日本軍の残虐行為を繰り返し聞かされ、その話は彼の体に沁みついており到底忘れることができないと切り出してきたのである。彼の目つきは険しく表敬訪問を受ける目つきではなかった。

 私は彼が歴史認識を持ち出してくることを予期していた。前日の国防大学での教官との面談で私は、先方が持ち出した意見に対し、(日本軍は中国に対して悪いことばかりしたとは思っていない。また、中国は些細なことでも外交問題にするが、日本は中国人の犯罪でも外交問題にすることはしない。まして靖国参拝は日本の内政問題である。日中関係の前進のためには中国が反日教育をやめることが重要だ)などと話ていた。

 当然、範中将にはそのことが伝えられていると考えたからだ。

 範中将の話が終わる様子がないので、私は手を挙げて話を遮って次のように発言した。

(私の歴史認識は範中将と全く異なる。私は端的に言って、日本軍が中国に対して悪いことをしたとは思っていない。日本は諸外国との比較で言えば、極めて穏健な中国統治をしたと思っている。日本人の中には範中将と同じ見解を持つものもいるが少数派である。平和な時代にも暴行はあるし殺人もある。

 それだけを取り上げて残虐行為が頻繁に行われたという中国側の歴史認識には全く同意できない。日本軍が実質、満州を統治するようになってから満州の人口はどんどん増加している。それは満州が豊かで治安が良かった証拠である。残虐行為が行われる場所に人が集まるわけがない。

 私は中国が日本に謝れと言うのならば、イギリスにたいしてはその5倍、10倍謝れと言ってやっとバランスが取れると思っている。それでも中国が日本に対してだけ残虐行為を吹聴するのは何か目的があるからに違いない。

 日本はアメリカから原子爆弾を投下され、東京大空襲も受けた。今日でいうところの民間人に対する無差別テロである。しかし、日本はもはや日米会談のたびにアメリカに謝罪要求することはしない。そんなこと言っていては日米関係が未来志向の関係にならないからである。

 しかし中国は日中会談のつどそれをやっている。そのことが日中関係を阻害していると思うし、是非中国における反日教育をやめてもらいたい。また江沢民氏が訪日し、日本の方々で歴史認識を言って回ったが、日本人の多くが反発した。彼は日本人に大変嫌われている。)


 私が話終えたあと範中将はややびっくりしたような表情に見えたが、(歴史認識の違いが日中軍事交流の妨げにならないようにしたい)との趣旨を語った。その場はそれで終わったのだが、私は私の発言に対するリアクションを心配した。何しろ相手は中国である。

 案の定、中国を出国するに当たって私が開いた答礼の宴に中国側からは誰も将官が出席しなかった。

 私たちの中国訪問は6月の初めだった。そして中国国防大学の統幕学校訪問が7月の初めに予定されていた。

 帰国後まもなく中国側から中国国防大学研修団の統幕学校訪問を取りやめると連絡してきた。中国がよくやる手口だ。私はもともと、国益を損なってまで中国と交流する必要はないと思っていたから、来て貰わなくても結構だから心配するなと統幕学校のスタッフには伝えていた。

 しかし、どういう風の吹き回しか7月の訪問予定の直前になって再び訪問を申しいえてきた。私は歓迎すると答えて研修団を受け入れることにしたのである。

 

【村山談話】は諸悪の根源

 航空幕僚長を解任されて11日目にあたる11月11日になって私は外交防衛委員会の参考人として参院の第一委員会室に招致された。

 断ることもできたが私はむしろ積極的に発言したかった。国権の最高機関で、論文で訴えたかったこと、日本の防衛の現状、自衛隊員の士気等々、話したいことは山ほどあった。

 だが、私の期待はすぐに失望に変わった。私を参考人として呼んでいながら、国会議員には私から話を聞く姿勢は全くなかったからだ。

 政府も質問者も私の応募した論文の内容については議論しないで、文民統制違反で懲戒処分にすべきだったと決めてかかっていた。

間違っても(解任が妥当だったかを考えてみる必要がある)とか(歴史認識を押し付ける政府見解は問題がある)などという発言はないのだ。政府も与野党も内容に伝は触れぬままに私の書いたことを政治に対する挑戦であるかのように罵ったのである。

 最初から私は釘を刺された。

 北澤俊美委員長が冒頭、こんな発言をしたのである。

【参考人に一言申し上げます。参考人の論文をめぐる問題を機に文民統制について国民の懸念が高まりそのあり方を問われる事態になっています。参考人に出席を求めたのは、国民の代表機関たる国会の場で政府に対し、この問題をただす一環として招致したものであり、決して本委員会は参考人の個人的見解を表明する場ではありません。

 さらに本日の質疑者、答弁者に対して一言お願い致します。論文事案は制服組トップが自衛隊の最高指揮監督権を有する内閣総理大臣の方針に反したこことを公表するという驚愕の事案であり、政府の文民統制が機能していない証であります。

 昭和時代に文民統制が機能しなかった結果、国家が存亡の淵に立ったのは忘れてはならない過去の過ちです。存亡の淵に立った最初の一歩は政府の方針に従わない軍人の出現とその軍人を統制出来なかった政府、「議会の弱体化でありました。国民の負託を受けた国会が後世の歴史の検証に耐えうる決議をお願いします。】

 私にしゃべらせないというのは委員会の最初からの決意だったようだ。

 毎日新聞の夕刊も(この日は通常の参考人招致と異なり、田母神氏が委員の質問だけに答える形式をとった。田母神氏が持論を一方的に披露することを警戒したため)と伝えていた。

 それにしても最初から(文民統制に反する驚愕の事案)とか(最初の第1歩は政府の方針に従わない軍人の出現)とか、まるで戦争犯罪人にたいするかのような態度ではないか。

 それだけではない。私は答弁中、北澤委員長によって二度にわたって発言を制限された。それも時間にして一分もかかっていないような短い答弁にである。これが(良識の府)の国会議員なのだろうか。

 私の言論を封殺したまま委員会は2時間半に及んだ。終わって私が国会を出ようとすると記者が追いかけてきた。私は立ちとまって思いのたけをぶつけた。

【村山談話の正体が本日分かった。村山談話は言論弾圧の道具だ。自由な議論を追及することが出来ないなら日本は北朝鮮と同じだ】

私は(日本は素晴らしい国だ)(侵略国家などではない)と言って航空幕僚長を解任されたのである。そして民主党は政府の任命責任を問うと言い、自民党は私が政府見解に反したことを問題にした。

 だが、これでは話はあべこべではないか。任命責任を問うというなら陸海空幕僚長は皆、(日本は侵略国家だ)(日本は醜い国家だ)という人物を充てよということになるのではないか。

 それでいいのだろうか。民主党にとってはよくても、日本国民にとってほんとうによいのだろうか。

 自民党も政府見解というが、政府見解に従って(日本は悪い国だ)と、日本を貶める発言「を続けろということなのだろうか。(村山談話)についてはもともと自民党の大多数が反対していたではないか。

 日本は今崖っぷちにたっている。国民はその危険を察知している。しかし政府とマスコミはその危険に気づいていない。マスコミがこれほど攻撃しても、国民の多数はネットで私を支持しているのである。政治家の先生方にお願いしたい。

【是非勇気を持って立ち上がって下さい!!】


第2章 日本を断罪する歴史観 に続く





f【田母神氏の論文で問題なった時の話であるが、村山談話にのっとった政府見解と反するということが問題の根本であったかと思うが 麻生総理は村山談話を踏襲(トウシュウ)はしていないですよね。たしか、村山談話は腐臭(フシュウ)するということを言っておられたかと。ということはこの談話は腐れていた臭いがひどいわ。といことで言われたのではなかろうか?】





(腐れ)村山談話(臭い)とは



村山元総理大臣腐臭談話

「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)

平成7年8月15日


 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。




私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。




f【とにかく、あの眉毛はありえない。細胞が反抗しているのである。こんなマユゲすら統率できないような物が総理大臣になるから自虐的卑屈的マゾヒズム談話などと本物の日本人には迷惑このうえないことをやらかすのである。村山自虐卑屈マゾヒスト元ソウリー大臣は即刻、マユゲそり落としの刑にかけるべし。】


【・・・・・・・・・・】