私は、自衛隊は武士道精神が息づいた素晴らしい組織であると信じてきた。そして隊員には、自分のことではなく、公に奉仕する強い志がなくてはならないと指導してきた。

 その基盤は愛国心である。しかし、日本は(侵略国家)などという呪縛から、自衛隊は本来の任務が完遂できなくなってしまっている。

 飛躍するようだが、私は拉致事件についてもこの敗戦以来の呪縛、つまり間違っても先に手を出さないという国柄が関係しているのではないかと感じてきた。

 拉致事件に対して、自衛隊が北朝鮮に乗り込んで行って被害者を救出することを考えておくべきだという意見がある。国内でかくも大規模な誘拐事件が発生すれば、警察はそうするだろう。だが、国境をまたいでいる以上、それをやれるのは自衛隊しかない。

 また、もし金正日政権が崩壊し北朝鮮国内に混乱が生じたときに、そのときこそ自衛隊による救出が可能となるという声も拉致救出運動に携わる国民のなかに根強くあると聞いている。

 国を守るの(軍)の役割であり、普通の国なら当然そうするだろう。

 だが、残念なことに自衛隊にはそうした備えはない。研究すらできない。政治の指示がない限り、自衛隊は動けないのである。

 職務に忠実であろうとすれば自衛隊による拉致被害者の救出の検討などは当然必要なことである。しかし、本来なすべきことが政治的な制約でできないのが自衛隊の現状である。(軍国主義)(侵略)などと言われたくないために誰もが臆病になってしまうのである。

 そして自衛隊の行動を制約することには熱心だが、北朝鮮有事の拉致被害者救出に備えよとの声は、政府はもちろん一部の議員を除いてはでてこないのである。

 救出行動を実行するか否かは政治の決心であるが、これに備えて事前研究を実施することは、やっておくべきことであると思う。

 問題は自衛隊が救出作戦を研究していることが発覚した場合の政府の対応である。何でも政局にしたい野党の質問に対し、政府が、(それはけしからん、関係者を厳重に処分する)というのが従来の対応であった。しかし本来は、そこまで研究していてくれたかと、誉められてもいいのではないだろうか。国家としては何でも準備できている方がいいのである。

 軍は予想される各種の事態に対し、十分な準備を行い、政治に対しできるだけ多くの選択肢を提供することが任務ではないか。自衛隊は言われたことだけやっていればいいと考えるわが国独特の文民統制は、今後議論されてしかるべきであると思う。



ふぁしすと党の叫び

東シナ海には(触れるな)

日本防衛の薄ら寒い実態は、北朝鮮が2006年7月5日に日本海に向けて7発のミサイルを発射したときの対応にも表れている。このとき与党内で北朝鮮のミサイル基地を攻撃する話が持ち上がった。

 ずいぶん古い政府答弁であるが、(座して死を待つ)のではなくて、自衛隊機に北朝鮮のミサイル基地をたたかせるのは憲法違反ではないという国会答弁がある。もちろん自衛隊には、これを成功させる十分な能力はない。元々敵地攻撃能力を準備していないからである。

 だが、自民党の政治家が二言三言しゃべっただけでマスコミの圧倒的な反対に遭って議論まで断念せざるを得なかったと記憶している。この場合にも結局十分な議論をおこなうことは出来なかった。

 議論ぐらいしてもいいのではないか。議論することさえけしからんというなら本当に日本は民主主義国家なのか。国防とは国家の存在がかかっているのである。無法国家の攻撃から国家を守るためにやれるべきことは何でもするのは当たり前のことではないだろうか。

 日本には反日的言論の自由は無限にある。日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。一方、親日的言論の自由は極めて制約されている。特に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。今回の私の論文がその典型である。

 問題になるのが分かっていて何故言うのかという疑問があるだろう。それは、言葉にしないということは少しずつ反日に同調するということを意味するからだ。これまでの歴史の推移を見れば、それは明らかである。そのとき少し譲歩して収めたとしても、次回はもっとつらくなる。もっと言論が不自由になる。

 この繰り返しでは日本はやがて崩壊してしまう。どこかで踏ん張ることが必要なのである。

 国民の救出や敵地攻撃だけでなく、領土防衛も手薄なのが日本の防衛である。

 安部政権のときに竹島周辺での海上保安庁の海洋調査が韓国によって阻まれたことがあった。実は海上自衛隊は戦後のある時期までは竹島周辺を海上警備の対象にしていた。しかし、いつの間にか中止している。

 また、ガス田問題がある東シナ海や尖閣諸島について、政府の姿勢は及び腰だ。尖閣諸島には海上保安庁が常時、巡視船を派遣しているが自衛隊は直接は関与していない。

 航空自衛隊のスクランブルは継続しているものの、海は航空機による対処の対象外だ。

 自衛隊が日本の領域を守れば中国を刺激するということなのだろうが、原子力潜水艦の了解侵犯など中国側からの挑発は絶えないのにおかしなことだ。こんなことではやはり、中国にも侮られるだけだろう。

 日米同盟も磐石ではない。集団的自衛権がないから日本がアメリカに一方的に依存する仕組みだ。

 集団的自衛権とは、簡単に言えば戦場で友軍としてお互いに助け合う行為である。日米安保条約にも国連憲章にもその権利が謳われているが、政府は日本国憲法で集団的自衛権は、権利はあるが行使できないと解釈している。

 このため日本海を護衛艦と米軍艦が並んで航行中に、米軍艦が北朝鮮の攻撃を受けても、自衛隊は米軍艦を助けるために反撃するわけにはいかないのである。

 空でも同様である。米軍の輸送機が攻撃されてもそばにいる自衛隊の戦闘機は反撃できない。もちろん逆のケースなら米軍は直ちに反撃するだろう。

 米国に向けて大陸間弾道弾が発射され、日本上空に差しかかっても日本が撃ち落すことはできない。自衛隊の海外派遣でも集団的自衛権は行使できない。イラクへの陸上自衛隊の派遣でも集団的自衛権は認められていなかった。

 イラク派遣の自衛隊はオーストラリアやオランダに守ってもらって復興支援活動を行ったのだが、仮にオーストラリアやオランダが攻撃されても反撃する権利は与えられていなかったのである。

 日本国民が考えなくてはいけないのは、同盟とは(戦友感情)であり、(連帯感)だということである。換言すればともに血を流すことでもある。これで本当に有事に日米同盟が機能するだろうか。米軍の大多数の兵士は、日本が集団的自衛権を行使できないなどということすら知らないから、もし自衛隊が米軍を見捨てる事態が発生しれば、日米同盟はその瞬間に瓦解することになるだろう。


ふぁしすと党の叫び
優秀だが異質な軍隊

 この問題だらけの防衛力の現状を、どうすればいいのだろうか。

 私は自衛隊の隊内誌などで、しばしば(航空自衛隊を元気にする10の提言)などという小文を登校してきたが、現職時代は、はっきり意見が言えないもどかしさを感じていた。

 しかし私はもはや民間人である。遠慮はいらないだろう。

 最初に言いたいことは、自衛隊は世界で最も優秀だが異質な(軍隊)だということである。優秀なのは隊員の質が高いということで、異質というのはいまだ軍として認められず、さまざまな制約があるからだ。

 国防をしっかりしたものにするためには日本の防衛政策と自衛隊をグローバルスタンダード(国際基準)に沿って見直す、つまり普通の民主主義国家の(普通の軍隊)にすべきだというのが私の考えだ。

 国際標準に従えば、わが国が55年体制下で野党を納得させるために(?)言ってきた自縄自縛の政策はすべてみなおされるべきだと思っている。(集団的自衛権)の行使は言うまでもないが、占領軍から与えられ、自衛隊を軍と認めない(日本国憲法)も書き換えが必要である。

 自衛官が命を懸けて戦うためには正統性が必要である。しかしながら憲法9条か今なお政党間で解釈が割れている。今春、名古屋高裁で、傍論ながら自衛隊のイラク派遣は憲法違反であるとの判決が出た。命をかけるときに、自衛隊の行動が憲法違反ではこまってしまう。解釈が割れないようにするためには憲法改正が望ましいが、それが困難である場合には、何らかの形の政府の強いリーダーシップが必要である。憲法は不磨の大典ではない。憲法改正の議論も封殺されるべきではない。

 防衛政策では(専守防衛)、(非核三原則)及び(武器輸出三原則)を見直す必要がある。(専守防衛)は昭和30年ごろから国会答弁などで登場するようになったが、公式文章に登場したのは昭和45年中曽根防衛庁長官のときの防衛白書の中であるといわれている。そして専守防衛は防衛力整備に反対する勢力を納得させるのに都合がよかったのか頻繁に使われる。そして軍事力を小さく留めておきたい勢力からは(国是)などと呼ばれるようになってしまった。

 だが攻撃は最大の防御である。専守防衛では抑止力にはならない。日本が絶対に先に手を出さないことが分かれば、相手は絶対に勝てる状況になるまで自分のペースで準備ができる。主導権は常に相手の手中にある。

 次に(非核三原則)であるが、これも議論が必要である。核兵器をもたない国家は最終的に、核へ行き保有国の意志に従属せざるを得ない。国際政治ではそのことが理解されているから、核保有国は現在書くを保有していない国には核を保有させたくないのだ。

 日本が核を持ちたいといえば、アメリカは核の傘を提供するから持たないでくれと言うのであろう。そのとき日本が最初から核を持たないと宣言するよりは核抑止効果が向上するのだ。わが国が自ら書くを保たない意思表示をすれば、核抑止効果はそれだけ減ずることになる。



ふぁしすと党の叫び
核は兵力の均衡を要しない

 北朝鮮が核兵器を持ったから日本も核を持つとか言ったら人類は滅亡すると言った政治家がいたが、事実は逆で、核兵器が、核戦争はもちろん通常兵器による戦争をも抑止しているのである。

 (日本が核攻撃を受けたのは核兵器を持っていなかったからなのだ。私は核のない社会よりは平和な社会を選ぶ)と言ったのはイギリスのサッチャー首相だ。

 核兵器は兵力の均衡を必要としない兵器である。通常兵器であれば十対一の戦力比であれば、戦えばいつでも必ず十の方が勝つ。しかし核戦争には勝者はいないのだ。それは一発でも命中すればたえられないほどの被害をうけるからだ。北朝鮮が何とか核兵器保有国になろうとしているのはそのことが分かっているからである。

 北朝鮮が核を持った場合、米国は軍事攻撃で北朝鮮をつぶせなくなる。核による反撃が怖いからである。たとえ一発でも核兵器で反撃されれば、その被害は甚大で民主主義国家アメリカは耐えられないからである。

 北朝鮮が核を保有しているかどうかは分からない。

 しかしもし保有していれば、アメリカはイラクやアフガンはつぶせても北朝鮮をつぶすことは難しくなる。

 わが国の核兵器の保有は米国との関係、核拡散防止条約(NPT)などの関係で難しいが、現行憲法の下でも法的には不可能ではない。安部内閣は平成18年に、質問趣意書に対して(核兵器であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するとことではない。)と答えている。

 たとえ核兵器の所有はしなくてもいつでも保有する姿勢を示すことで大きな抑止力となる。日本のように核開発技術が高ければすぐにでも核兵器を開発できるからである。

 私はアメリカの核を国内に持ち込むだけでは効果は薄いと思っている。米国に逃げられないようにするため、NATO(北大西洋条約機構)の一部の国がやっているニュークリアシェアリングに踏み込む必要があると思う。

 これは米国の核兵器の発射ボタンを共有するものだ。つまり核を所有し配備しているのは米軍だが、ドイツ、おらんだ、イタリア、ベルギー、トルコの5カ国は、NATOの枠組みの中で、米軍の核兵器を使って日常的に訓練している。これらの国が核恫喝を受けた場合にはアメリカは、これらの国に決められた核兵器を引き渡すというものである。

 このニュークリアシェアリングシステムはNPT体制化でも機能しているという。日本でも核抑止力を強化する為の方法として考慮してもいいのではないか。わが国自身が核を保有するわけではないが、核抑止は格段に強化される。いずれにしろ周辺国はみな核武装しているのに、絶対に核兵器は持たないというだけでは日本を危険にさらしていることになる。

 日本政府は(核の廃絶)を掲げているが、絶対に核兵器はなくならないと思う。それを政策として推進するというのは振興の世界というほかない。だが、これまではそれでよくても北朝鮮が核を保有したと言われる今日、そんな欺瞞がまかりとおるようなら国が危ない。核についてももっと自由に議論されていいのではないか。

 武器輸出についても日本企業の手足を縛っている。調達の適正化で競争入札が原則となった。しかし武器輸出が出来ない日本企業が、競争入札でアメリカなどの企業に勝てるわけがない。このため防衛関係費の減少傾向も相まって、日本の防衛産業は極めて厳しい経営状況におかれている。

 自衛隊はアメリカや旧軍のように工兵を自衛隊の中に持たない。従って防衛産業なしには戦力発揮ができないのである。

 私は、国が自衛隊が防衛産業の育成をもっと強く打ち出さなければ、防衛産業が立ち行かなくなると思っている。武器輸出が可能であれば、会社としても営業努力のし甲斐もあろう。しかし武器輸出を禁じられ、自衛隊だけを顧客として国際競争に勝ち抜くことは無理である。

 武器輸出禁止は解除したらいいと思う。大量に造れば値段も下がる。また今後、国際共同開発は益々盛んになると思われるが、会社の経営基盤がしっかりしていなければ、技術力を蓄積することができず、重要部分は造らせてもらえない。自衛隊の戦力発揮にも大きな影響が出る。

 防衛産業は自衛隊と組んでボロ儲けしているように報道されることが多いが、これも自虐史観の影響だ。

 わが国の防衛産業に携わっている人たちの心意気は世界のどの国よりも素晴らしいものがある。国家に貢献できることを誇りにして、厳しい環境にもめげず努力している。その姿にはしばしば頭が下がることがあった。



第3章 憲法と核について 完     第4章 最後に へ