DAY12に来ると心窩部痛地獄ともようやくおさらばです。
結局ジプレキサは1回だけ服用で終わりました。
本日はリハで入念にストレッチをしてもらいました。脳腫瘍により左大腿筋一部の麻痺が微妙に残存。
またおそらく後腹膜腫瘍により右下肢も同様に微妙な麻痺が残存しているのだ。
左は右よりはかなり軽いが。
寝たきりじゃないにしても吐き気で数日ゴロゴロしていたから歩行の仕方がギコチナイ。。
折角リハで鍛えていた大腿筋が弱っている始末。膝折れが随所で見られる。
■入院当初は左足完全停止だったのでベッド上で左腕、左足の運動機能を毎日30分程度確認してもらった。
実は左腕も機能が日毎に落ちていた。。
お茶碗等を掴んで一定の高さで維持している腕が下がってくるのだ。これにはびっくりだった。
私の場合、肩甲骨付近の筋肉から麻痺が出た。
まぁ実はこいつの仕業が無論、脳腫瘍であるのだが、
病気発覚後の2月に2cmあった脳腫瘍の回りが浮腫でいっぱいに広がっているのを見て、
これは浮腫を取れば機能回復するなと思った。
案の定、ケモBEP&浮腫用のステイロイド注や内服等を併用したおかげで、
まず足に関しては指から動かせるようになった。
この時の喜びは今でも涙が出せるほどであった。
(動かせない筋肉を動かすのは相当疲れる。脳や精神、時に筋肉?がだ。。)
だがベッドから降りて歩き出すにはまだまだ早くて、
車いすへの移動も一人では禁止。
トイレは付き添いで、下着も下ろしてもらう、
入浴前後でも付き添い、
お風呂で身体を洗えない、
脱衣所で身体を拭けない、
下着を履き替えられない等々。。。
言い出したらキリがなかった。
この時、彼女が必死に病室に泊りがけで介護してくれたから楽しかった思い出しか実はなかった。
辛い思い出は皆無だ。
またこれ以上悪くなる事はなく良くなる一方だという考えが異常に前向きにさせていた。
実際、毎日泣いてたけど。
優しくしてくれた場面をふと思い出すと自然とタラッと流れてくる熱いもの。
目が腫れるのには慣れた。泣き虫なんちゃらとか良く言われていた。
また右足は入院当初、機能に問題なかったのでありとあらゆる場面で右足を酷使していた。
ゆえに筋肉量に差が付き、見かけも違ってきた。
お風呂で自分の姿を見ると泣きたくなった。。。太ももの細さに、、、落胆した。
完全停止の時間って短かったと思う。10日間くらいだと思う。
筋肉を奪い去るには事足りる時間だったのか。勉強になる。
結局、足の指が動かせるようになってから、段々と足首や膝や腰やお尻が動かせるようになり、
リハ室での訓練が始まった。
で、、実はこの頃くらいに、脳外のDrが往診に来て下肢麻痺具合と運動機能を確認に来たのだ。
私はそりゃ気合十分でうりゃ!おりゃ!と足上げ運動を1回で良いのに2回出来るぞとアピールしました。
Drは大変驚いた様子でこれはすごいもう動かないかもしれない可能性だってあったのに。。とポツリ。
え!?!?
でその後彼女に足裏をマッサージしてもらっていたところ、
なんと。。。
『!てんかん発作!』
左足から徐々に上昇し、左臀部、左後背部、
そして記憶が正しければ極め付けは左胸部!!
まぁまぁ筋肉質だった私の身体は壊れたように踊り狂って筋肉が吊りそうなっていた。
なので私は彼女に臀部痙攣あたりから、
「左膝を折って左に全力で押してくれ!!、あとナースコール。。」
看護師がわらわら5人くらい集結。とりあえず身体を押さえつけるが私はすかさず、
「筋肉が吊っている感じなので、左手首を持って上体を抑えながら、右斜め上に全力で!!全力で!お願いします!はぁはぁ。はぁはぁ。」
全力でと言っているのにそれが全力なのかと言いたくなるほどの非力さだった。
泌尿器でてんかん発作とか稀なんだろう。
時に1分後くらい、エレベーター待ちをしていた先ほどの脳外Drを看護師の1人が捕まえてきてくれて現れた。(ナイス)
その手にはジアゼパム。シュッとライン取りしてあったところから入れてもらい、
「とりあえず大丈夫!!すごい激しかったからジアゼパム入れたよ、あとフェニトインも入れるよ」
ジアゼパムとか俺、、重責てんかんじゃないか。
その後酸素マスクして、フェニトイン入れられた。2日間も。
非線形のフェニトインだがTDMして量を決めてやっているのか、いや適当だろう。。。
酸素マスクしている俺は今までの冷静さを失って、
死ぬかと思った。
と呟き泣いてしまった。
彼女も泣いてくれた。