前の投稿で、
「天のお母様という存在に関して疑問を持ち続けています。」
と書きました。
今まで、無形なる神様が、アダム・エバを通し、有形実体世界である地上において肉体を持ち、無形実体世界においては、アダム・エバを通し、父母なる神としての霊人体を持つと聞いてきました。
つまり、アダム・エバが真の父母となったとき、神様は地上に、真の父母を通し顕現され、霊界においては真の父母であるアダムとエバの霊人体を通し、神様が顕現されと言うことです。
エバがアダムのあばら骨からつくられたように、アダムとエバを作るために、神様は母なる大地を作られ、天と地の授受(愛)によってアダムは創造されたと言うことです。
アダムとエバが成長し、完成し、真の父母となり霊界に行かれたとき初めて、天の父母が霊界に存在するようになるわけです。
と言うことは、真の御父母様お二人が霊界に行かれて始めて霊界に、無形なる神様のお姿を現すことが出来るわけです。
それまでは天のお母様は実在せず、想像上の存在であると言えます。
史吉子先生の著書『原理に関するみ言葉の証』のP158~「私たちが知るべき天のお母様」に、
「ところで、天のお母様の声をじっと聞いていたら、その声が真のお母様の声だったと言われました。」
という証があります。
このことは、真のお母様が天のお母様となられると言うことです。
お母様が地上におられますので、天上にはお母様は存在しません。
天の父と呼ぼうが、天の父母様と呼ぼうが自由じゃないかと思われる方が当然いることと思いますが、
天上にいるはずのない天の母をお父様の御聖和のあと、持ち出してきて、天の父に対して天の父母と呼ぶようにされたのが問題であると思います。
イエス様の十字架撤廃運動は、
キリスト教の象徴である十字架が実は神様の悲しみの象徴であったこと、
イエス様は、本来十字架に架けられ処刑されるべきでなく、結婚してイスラエルの王となるべきであったという統一教会の主張に基づいて始まった運動であるわけですが、
多くのクリスチャンが2000年にわたって疑いも無く、十字架をイエス様の救いの象徴としてきたのと同じように、
何らかの理由で、天の父に対して、あるいは、真のお父様に対しての負債があって、あるいは、サタンの主管によって、天の父母様と呼ぶことにより私たち人類を導いてこられた唯一なる神様、天の父の名を私たちの心から消してしまおうと狙いの中で、
サタンが先行して原理型の非原理世界をつくってきたように、天の父母様が存在していない、時ならぬ時に、天の父母様と私たちに呼ばせることによる信仰のズレをつくりだそうとしていることに対し、
果たして、神様は、天の父母様と言う名を私たちが当たり前のように呼ぶことにどのように感じられるでしょうか。
神様が、天の父母様と呼ばれることが、神様にとってイエス様の十字架のごとく
悲しみと恨(ハン)と恩讐となるのではないかと思います。
もし、何らかの罪ゆえに、そのことから逃げたいとする心理のゆえに、神様を、天の父を天の父母様と呼ぶようになったとしたら、
イエス様の十字架撤廃運動のように、その呼び名は撤廃すべき呼び名であると言うことができると思います。
「天のお母様という存在に関して疑問を持ち続けています。」
と書きました。
今まで、無形なる神様が、アダム・エバを通し、有形実体世界である地上において肉体を持ち、無形実体世界においては、アダム・エバを通し、父母なる神としての霊人体を持つと聞いてきました。
つまり、アダム・エバが真の父母となったとき、神様は地上に、真の父母を通し顕現され、霊界においては真の父母であるアダムとエバの霊人体を通し、神様が顕現されと言うことです。
エバがアダムのあばら骨からつくられたように、アダムとエバを作るために、神様は母なる大地を作られ、天と地の授受(愛)によってアダムは創造されたと言うことです。
アダムとエバが成長し、完成し、真の父母となり霊界に行かれたとき初めて、天の父母が霊界に存在するようになるわけです。
と言うことは、真の御父母様お二人が霊界に行かれて始めて霊界に、無形なる神様のお姿を現すことが出来るわけです。
それまでは天のお母様は実在せず、想像上の存在であると言えます。
史吉子先生の著書『原理に関するみ言葉の証』のP158~「私たちが知るべき天のお母様」に、
「ところで、天のお母様の声をじっと聞いていたら、その声が真のお母様の声だったと言われました。」
という証があります。
このことは、真のお母様が天のお母様となられると言うことです。
お母様が地上におられますので、天上にはお母様は存在しません。
天の父と呼ぼうが、天の父母様と呼ぼうが自由じゃないかと思われる方が当然いることと思いますが、
天上にいるはずのない天の母をお父様の御聖和のあと、持ち出してきて、天の父に対して天の父母と呼ぶようにされたのが問題であると思います。
イエス様の十字架撤廃運動は、
キリスト教の象徴である十字架が実は神様の悲しみの象徴であったこと、
イエス様は、本来十字架に架けられ処刑されるべきでなく、結婚してイスラエルの王となるべきであったという統一教会の主張に基づいて始まった運動であるわけですが、
多くのクリスチャンが2000年にわたって疑いも無く、十字架をイエス様の救いの象徴としてきたのと同じように、
何らかの理由で、天の父に対して、あるいは、真のお父様に対しての負債があって、あるいは、サタンの主管によって、天の父母様と呼ぶことにより私たち人類を導いてこられた唯一なる神様、天の父の名を私たちの心から消してしまおうと狙いの中で、
サタンが先行して原理型の非原理世界をつくってきたように、天の父母様が存在していない、時ならぬ時に、天の父母様と私たちに呼ばせることによる信仰のズレをつくりだそうとしていることに対し、
果たして、神様は、天の父母様と言う名を私たちが当たり前のように呼ぶことにどのように感じられるでしょうか。
神様が、天の父母様と呼ばれることが、神様にとってイエス様の十字架のごとく
悲しみと恨(ハン)と恩讐となるのではないかと思います。
もし、何らかの罪ゆえに、そのことから逃げたいとする心理のゆえに、神様を、天の父を天の父母様と呼ぶようになったとしたら、
イエス様の十字架撤廃運動のように、その呼び名は撤廃すべき呼び名であると言うことができると思います。