Theory11-「個性」の捉え方②-
またまたお久しぶりです。
今回は「個性」の第2弾。
前回の最後にお話した「個性至上論」を唱える人の特徴について、少し述べてみたいと思います。
私が見聞きした「個性至上論者」のパターンは大きく分けて3つです。
最初のパターンとして、彼らは「個性的になれ」「個性を持て」と言いますが、そもそもこの表現が誤解を招きます。
このような言い回しでは、まるで相手に「あなたには個性が備わっていないのだから」と言っているも同然ではないでしょうか?
もちろんそうではありません。
「個性」がないと考えている人は、自分の「個性」の存在にあまりにも無意識だったために、あるいは、ほとんど自分自身を客観的に見つめるコトをしてこなかったために、「個性」があるコトに気づいていないだけなのです。
携帯電話をドコに置いたか忘れて、あちこち探したが見つからず、「ドコにいったのだ」と落胆して首を前に傾けたら自分の手で握っていたのが見えた、というような展開とよく似ています。
携帯電話は自分から離れた所にあると思い込み、かつ「探す」という行為に夢中で、電話を持つ自分が見えていなかった何よりの証拠です。
同じように、「個性」が外にあると思い込み、「自分探し」に夢中で、元から内包されている「個性」に気づきません。
そして、長い間探し求めた後に自分の内側を見返して初めて、ソコに「個性」があるというコトに気づきます。
探すのに使った時間は全てムダになります。
携帯電話のように目に見えるであれば多少の時間で気づくでしょうが、それが目に見えない「個性」となるとハナシは別で、ヘタすると何年かかっても自分を振り返るコトに至りません。
このように、彼らはまるで「『個性』をゼロから創り上げましょう」というようなコトを標榜しますが、そうではなくて、まず自分の内側に潜む「個性」は何なのか認識するコトが重要なのです。
コレはよく、自分が無意識のうちに行動する時に浮き彫りになるコトが多いので、自分を客観視するコトに慣れていないうちは他人に聞いてみるのがオススメです。
「個性」は自分の外側にはありません。
つまり、自分の「個性」は自分自身を写し出す鏡のようなモノです。
自分で自分のコトを分かっていないような人は、かなり悲惨な末路を辿りますのでお気をつけ下さい。
そして次に注意していただきたいパターンは、「個性」を「ナンバーワンになれないコトへの言い訳」として利用する連中のパターンです。
コレは相当にタチが悪いです。
こういう人を、私自身何人も見てきました。
彼らは、ナンバーワンを決める競争をする中で他者に勝てないと判断すると、「ナンバーワンになるコトだけが全てじゃない」と言い始めます。
勝てないコト・負けてラクな方向に行くコトへの何かもっともらしい理由が欲しいがために、そして勝てない自分を慰め、正当化するために、つい先ほどまでナンバーワンを争う闘いに参加し、「オンリーワンよりナンバーワン」だった人は、このように突如として意見を翻すのです。
私の同級生の中には、「学校の中間・期末テストは無くした方がイイ」と真剣に主張する人がいます。
理由は「テストの点数だけが全てじゃないから」だそうです。
彼らの要点はさしずめ「数字による差別化以外に、もっとタイセツなモノがあるハズだ」といったトコでしょう。
私はいつもこの意見に対してこう思います。
「点数も取って、なおかつそれ以外のタイセツなモノも手に入れる」という選択肢は存在しないのか、と。
オンリーワンを目指すというコトと、ナンバーワンになるのを放棄するというコトはイコールでは結び付きません。
ナンバーワンを目指しつつ、オンリーワンも磨けばイイだけの話です。
実際、もともと特別なオンリーワンなのですから、どんなにナンバーワンを目指そうとオンリーワンです。
オンリーワンは誰にでも保証されているからこそ、誰もに対しての保証がないナンバーワンを目指すコトにも価値が出てくるのです。
実際、このような主張をする人のほとんどが、大学のカンタンなテストさえ悲惨な結果だったりするものです。
彼らが言う「個性」とは、決して純粋な気持ちから来ているモノではありません。
ソレは「ナンバーワンになれなかったコトへの弁明」という不純物が大量に混じった気持ちである可能性が高いです。
このように、個性至上論者の中には競争に敗れたいわゆる「負け組」も多いのです。
これらの意見はただの「負け犬の遠吠え」ですので、彼らのハナシは無視するコトをオススメします。
最後のパターンとして挙げるのは、「個性」を「何でもアリ」と勘違いしているグループです。
コレは前回の内容とかぶりますが、まさに「個性」を最も尊重すべきモノとして掲げたがために発生したパターンです。
果たして「お年寄りに優先席を譲らない」「礼儀作法を重んじない」「空気を読まない」…といった内容は「個性」なのか、というコトです。
つまり、「個性」も「常識」や「礼儀」、「協調性」といった面からある程度の制約を受けるというコトです。
「個性」は時として、その場その場で「周囲から求められる個性」であらざるを得ないのです。
「周囲から求められる個性」とは少し矛盾した感じもしますが、この矛盾を紐解く、つまり「周囲からの要望≧個性」にしなければ、先ほどの荒唐無稽な考え方が「個性」として認定されてしまいます。
ですから、私たちは「個性」は「何でもアリ」なのではないというコトを十分に分かっておく必要があります。
自分の「個性」を出すからといって、自分のコトだけを考えていてはいけません。
以上3パターンに分けて「個性至上論者」の特徴を述べてきました。
周囲にあてはまるような人がいた際にはご用心下さい。
次回で完結。
次回は、この現状を打破するための方策と、「良い個性」とはどのようなモノか、またそれはどのような条件の下で養われていくのかについて考えてみようと思います。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
今回は「個性」の第2弾。
前回の最後にお話した「個性至上論」を唱える人の特徴について、少し述べてみたいと思います。
私が見聞きした「個性至上論者」のパターンは大きく分けて3つです。
最初のパターンとして、彼らは「個性的になれ」「個性を持て」と言いますが、そもそもこの表現が誤解を招きます。
このような言い回しでは、まるで相手に「あなたには個性が備わっていないのだから」と言っているも同然ではないでしょうか?
もちろんそうではありません。
「個性」がないと考えている人は、自分の「個性」の存在にあまりにも無意識だったために、あるいは、ほとんど自分自身を客観的に見つめるコトをしてこなかったために、「個性」があるコトに気づいていないだけなのです。
携帯電話をドコに置いたか忘れて、あちこち探したが見つからず、「ドコにいったのだ」と落胆して首を前に傾けたら自分の手で握っていたのが見えた、というような展開とよく似ています。
携帯電話は自分から離れた所にあると思い込み、かつ「探す」という行為に夢中で、電話を持つ自分が見えていなかった何よりの証拠です。
同じように、「個性」が外にあると思い込み、「自分探し」に夢中で、元から内包されている「個性」に気づきません。
そして、長い間探し求めた後に自分の内側を見返して初めて、ソコに「個性」があるというコトに気づきます。
探すのに使った時間は全てムダになります。
携帯電話のように目に見えるであれば多少の時間で気づくでしょうが、それが目に見えない「個性」となるとハナシは別で、ヘタすると何年かかっても自分を振り返るコトに至りません。
このように、彼らはまるで「『個性』をゼロから創り上げましょう」というようなコトを標榜しますが、そうではなくて、まず自分の内側に潜む「個性」は何なのか認識するコトが重要なのです。
コレはよく、自分が無意識のうちに行動する時に浮き彫りになるコトが多いので、自分を客観視するコトに慣れていないうちは他人に聞いてみるのがオススメです。
「個性」は自分の外側にはありません。
つまり、自分の「個性」は自分自身を写し出す鏡のようなモノです。
自分で自分のコトを分かっていないような人は、かなり悲惨な末路を辿りますのでお気をつけ下さい。
そして次に注意していただきたいパターンは、「個性」を「ナンバーワンになれないコトへの言い訳」として利用する連中のパターンです。
コレは相当にタチが悪いです。
こういう人を、私自身何人も見てきました。
彼らは、ナンバーワンを決める競争をする中で他者に勝てないと判断すると、「ナンバーワンになるコトだけが全てじゃない」と言い始めます。
勝てないコト・負けてラクな方向に行くコトへの何かもっともらしい理由が欲しいがために、そして勝てない自分を慰め、正当化するために、つい先ほどまでナンバーワンを争う闘いに参加し、「オンリーワンよりナンバーワン」だった人は、このように突如として意見を翻すのです。
私の同級生の中には、「学校の中間・期末テストは無くした方がイイ」と真剣に主張する人がいます。
理由は「テストの点数だけが全てじゃないから」だそうです。
彼らの要点はさしずめ「数字による差別化以外に、もっとタイセツなモノがあるハズだ」といったトコでしょう。
私はいつもこの意見に対してこう思います。
「点数も取って、なおかつそれ以外のタイセツなモノも手に入れる」という選択肢は存在しないのか、と。
オンリーワンを目指すというコトと、ナンバーワンになるのを放棄するというコトはイコールでは結び付きません。
ナンバーワンを目指しつつ、オンリーワンも磨けばイイだけの話です。
実際、もともと特別なオンリーワンなのですから、どんなにナンバーワンを目指そうとオンリーワンです。
オンリーワンは誰にでも保証されているからこそ、誰もに対しての保証がないナンバーワンを目指すコトにも価値が出てくるのです。
実際、このような主張をする人のほとんどが、大学のカンタンなテストさえ悲惨な結果だったりするものです。
彼らが言う「個性」とは、決して純粋な気持ちから来ているモノではありません。
ソレは「ナンバーワンになれなかったコトへの弁明」という不純物が大量に混じった気持ちである可能性が高いです。
このように、個性至上論者の中には競争に敗れたいわゆる「負け組」も多いのです。
これらの意見はただの「負け犬の遠吠え」ですので、彼らのハナシは無視するコトをオススメします。
最後のパターンとして挙げるのは、「個性」を「何でもアリ」と勘違いしているグループです。
コレは前回の内容とかぶりますが、まさに「個性」を最も尊重すべきモノとして掲げたがために発生したパターンです。
果たして「お年寄りに優先席を譲らない」「礼儀作法を重んじない」「空気を読まない」…といった内容は「個性」なのか、というコトです。
つまり、「個性」も「常識」や「礼儀」、「協調性」といった面からある程度の制約を受けるというコトです。
「個性」は時として、その場その場で「周囲から求められる個性」であらざるを得ないのです。
「周囲から求められる個性」とは少し矛盾した感じもしますが、この矛盾を紐解く、つまり「周囲からの要望≧個性」にしなければ、先ほどの荒唐無稽な考え方が「個性」として認定されてしまいます。
ですから、私たちは「個性」は「何でもアリ」なのではないというコトを十分に分かっておく必要があります。
自分の「個性」を出すからといって、自分のコトだけを考えていてはいけません。
以上3パターンに分けて「個性至上論者」の特徴を述べてきました。
周囲にあてはまるような人がいた際にはご用心下さい。
次回で完結。
次回は、この現状を打破するための方策と、「良い個性」とはどのようなモノか、またそれはどのような条件の下で養われていくのかについて考えてみようと思います。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
Theory11-「個性」の捉え方①-
お久しぶりです。
今回からは「個性」の捉え方についてイロイロ書いていこうと思います。
「個性」とは何か、またイマドキの人たちが「個性」をどう捉えているのか。
そして、「個性」に関してどれ程の「勘違い」をしているのか。
といった、少し風刺じみた内容です。
でも最後にはしっかりTheoryを提示するのでご心配なく。
「現代はアイデンティティー不足の時代」と言われ始めて久しい今日、アイデンティティー、つまり「個性」について本気で考える人も多くなったのではないでしょうか。
まさに「自分探しの旅に出る」という感じです。
この風潮をカンペキなまでに表しているのが、人気グループ"SMAP"の「世界に一つだけの花」という曲です。
「ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン」
という歌詞が元で飛ぶように売れたのも記憶に新しいですね。
しかし、このまるで「個性」が全ての基盤であり、また全ての中心であるかのような考え方は100%問題だというコトを述べておきたいのです。
つまり、今回の本筋を先に言えば「『個性』は全ての基盤ではないし、『個性』が全ての中心に来てはいけない」というコトです。
なぜか。
それは、個性を全ての基盤・中心にしようとした結果、あたかも「全てが正しい」かのような認識が生まれてしまったからです。
「無理が通れば道理が引っ込む」
コレは、「個性至上論」と言い換えられそうな現代を素晴らしく的確に捉えた表現だと思います。
例えば、私が小さかった頃は「勉強なんかしたくない」とダダをこねても「いいから。学生なんだから黙って勉強しろ」という説教が通じていました。
そこには「学生は勉学にいそしむもの」という暗黙の「道理」がありました。
皆が皆、その暗黙の「道理」をわきまえていたため、その説教も説得力がありました。
しかし今はそうではありません。
「いいから勉強しろ」と言うと、「なんでそんな事しなくちゃならないんだ」と反抗されます。
その結果、「学生とはいえ、勉強以外の事を重視するのもアリだ」という荒唐無稽な意見が出てきます。
コレを子供が言うのならまだしも、大の大人が声高に提唱しているのだからマズいです。
「学生でも勉強しなくていい」という「無理」が通ってしまったため、「学生とは勉強するもの」といった「道理」が引っ込んでしまったのです。
そして「個性至上」という理由で、こうした言わば「ワガママ」のようなものが正当化されていきます。
現状はこうです。
では、具体的にはどこが「マズい」のか。
それは、彼らが「『個性』以前に重視されるべきモノ」の存在を軽視しているという点です。
語彙力が稚拙な私には、コレを「基礎能力」と呼ぶ以外に表しようがないです。
例を挙げると、いくら「個性的な柔道」を掲げる柔道家がいたとしても、まずは適切な食事と筋トレをしなければオリンピックで金メダルなんて夢のまた夢でしょう。
「個性至上論」とは、私にとっては体重40キロそこそこで、周囲に腕相撲で負けているクセに「いや、柔道家だが食事と筋トレなしでオリンピックを目指すのもアリだ」と言っている男子柔道の選手と同じように見えます。
おそらく、誰が見ても「オリンピックどうこうより、まずその体格をなんとかしろ」と言うでしょう。
つまり「個性」というモノは、それ以前にその基盤となる「基礎能力」が完成した上で初めて発揮されるものだというコトが言いたいのです。
「個性」は「基礎能力を応用した結果生じる特性」と考えるべきなのです。
「まず『個性』ありき」ではないのです。
コレに関して、最近「個性至上論」によって確実に失敗に終わったモノがあります。
それは、いわゆる「AO入試」を始めとした大学の推薦入試です。
コレは私の経験上感じたコトですが、AO入試などの推薦入試を利用して入学した学生は、必修の授業にすらついてこれず、挙げ句授業を休みがちになり、結果留年・退学…という結末をたどる人がヒジョーに多いです。
必修といっても、レベルは高校の授業の繰り返し程度です。
大学入試は本来、学力のある生徒を大学に入れるためにあったものです。
ソレはおそらく「『個性』うんぬん以前に、『個性』を発揮するための『基礎能力』があるかどうかを見極めないといけない」という意味合いがあるように思えるのです。
「『基礎能力』のない者が『個性』などと言うのはそもそもどうなのか」と。
案の定、「基礎能力」を見ずに「個性」のみを見たAO入試で入ってきた生徒は、蓋を開けてみれば「『基礎能力』がボロボロで『個性』どころの騒ぎではない」という人たちがほとんどでした。
「基礎」を疎かにし、「応用」のみを鍛えた「頭でっかち」な人が、基礎をツンとつつかれただけでガタガタと崩れていくのは想像に難くないでしょう。
こうした結果を受け、一部の一流大学の間では、すでに多くの推薦制度を廃止する動きが見られています。
「個性」を伸ばす「だけ」では、事はうまく運ばないのです。
早稲田大学の理工学部の推薦のように、「科学オリンピック準優勝以上」のようなとてつもない能力を持った者の推薦や、全国大会ベスト4クラスのアスリート達のスポーツ推薦など、一部の推薦を除いて、AO入試を始めとしたこれらの推薦は結果的に大学の評価を落とし、進級すらできない生徒を量産する温床となっているのが現実です。
したがって、「『個性』を伸ばす」というコトは、まずそれ以前の「基礎能力がしっかり出来ている」コトが絶対条件です。
先ほどの柔道に限らず、運動であれば「食事」や「筋トレ」が「基礎能力」となります。
対象が変わればもちろん「基礎能力」も変わります。
そのため、何が「基礎」となっているのかを見分ける必要があります。
繰り返しになりますが、「個性」を育てる際は、その核となる「基礎能力」があるかどうかをしっかり見極めた上で始めた方がイイです。
次回はこの続きとして、「個性至上論」を唱える人の特徴を述べて、そこから何らかのTheoryを導こうと思います。
最後まで読んでいただきた方、ありがとうございました。
今回からは「個性」の捉え方についてイロイロ書いていこうと思います。
「個性」とは何か、またイマドキの人たちが「個性」をどう捉えているのか。
そして、「個性」に関してどれ程の「勘違い」をしているのか。
といった、少し風刺じみた内容です。
でも最後にはしっかりTheoryを提示するのでご心配なく。
「現代はアイデンティティー不足の時代」と言われ始めて久しい今日、アイデンティティー、つまり「個性」について本気で考える人も多くなったのではないでしょうか。
まさに「自分探しの旅に出る」という感じです。
この風潮をカンペキなまでに表しているのが、人気グループ"SMAP"の「世界に一つだけの花」という曲です。
「ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン」
という歌詞が元で飛ぶように売れたのも記憶に新しいですね。
しかし、このまるで「個性」が全ての基盤であり、また全ての中心であるかのような考え方は100%問題だというコトを述べておきたいのです。
つまり、今回の本筋を先に言えば「『個性』は全ての基盤ではないし、『個性』が全ての中心に来てはいけない」というコトです。
なぜか。
それは、個性を全ての基盤・中心にしようとした結果、あたかも「全てが正しい」かのような認識が生まれてしまったからです。
「無理が通れば道理が引っ込む」
コレは、「個性至上論」と言い換えられそうな現代を素晴らしく的確に捉えた表現だと思います。
例えば、私が小さかった頃は「勉強なんかしたくない」とダダをこねても「いいから。学生なんだから黙って勉強しろ」という説教が通じていました。
そこには「学生は勉学にいそしむもの」という暗黙の「道理」がありました。
皆が皆、その暗黙の「道理」をわきまえていたため、その説教も説得力がありました。
しかし今はそうではありません。
「いいから勉強しろ」と言うと、「なんでそんな事しなくちゃならないんだ」と反抗されます。
その結果、「学生とはいえ、勉強以外の事を重視するのもアリだ」という荒唐無稽な意見が出てきます。
コレを子供が言うのならまだしも、大の大人が声高に提唱しているのだからマズいです。
「学生でも勉強しなくていい」という「無理」が通ってしまったため、「学生とは勉強するもの」といった「道理」が引っ込んでしまったのです。
そして「個性至上」という理由で、こうした言わば「ワガママ」のようなものが正当化されていきます。
現状はこうです。
では、具体的にはどこが「マズい」のか。
それは、彼らが「『個性』以前に重視されるべきモノ」の存在を軽視しているという点です。
語彙力が稚拙な私には、コレを「基礎能力」と呼ぶ以外に表しようがないです。
例を挙げると、いくら「個性的な柔道」を掲げる柔道家がいたとしても、まずは適切な食事と筋トレをしなければオリンピックで金メダルなんて夢のまた夢でしょう。
「個性至上論」とは、私にとっては体重40キロそこそこで、周囲に腕相撲で負けているクセに「いや、柔道家だが食事と筋トレなしでオリンピックを目指すのもアリだ」と言っている男子柔道の選手と同じように見えます。
おそらく、誰が見ても「オリンピックどうこうより、まずその体格をなんとかしろ」と言うでしょう。
つまり「個性」というモノは、それ以前にその基盤となる「基礎能力」が完成した上で初めて発揮されるものだというコトが言いたいのです。
「個性」は「基礎能力を応用した結果生じる特性」と考えるべきなのです。
「まず『個性』ありき」ではないのです。
コレに関して、最近「個性至上論」によって確実に失敗に終わったモノがあります。
それは、いわゆる「AO入試」を始めとした大学の推薦入試です。
コレは私の経験上感じたコトですが、AO入試などの推薦入試を利用して入学した学生は、必修の授業にすらついてこれず、挙げ句授業を休みがちになり、結果留年・退学…という結末をたどる人がヒジョーに多いです。
必修といっても、レベルは高校の授業の繰り返し程度です。
大学入試は本来、学力のある生徒を大学に入れるためにあったものです。
ソレはおそらく「『個性』うんぬん以前に、『個性』を発揮するための『基礎能力』があるかどうかを見極めないといけない」という意味合いがあるように思えるのです。
「『基礎能力』のない者が『個性』などと言うのはそもそもどうなのか」と。
案の定、「基礎能力」を見ずに「個性」のみを見たAO入試で入ってきた生徒は、蓋を開けてみれば「『基礎能力』がボロボロで『個性』どころの騒ぎではない」という人たちがほとんどでした。
「基礎」を疎かにし、「応用」のみを鍛えた「頭でっかち」な人が、基礎をツンとつつかれただけでガタガタと崩れていくのは想像に難くないでしょう。
こうした結果を受け、一部の一流大学の間では、すでに多くの推薦制度を廃止する動きが見られています。
「個性」を伸ばす「だけ」では、事はうまく運ばないのです。
早稲田大学の理工学部の推薦のように、「科学オリンピック準優勝以上」のようなとてつもない能力を持った者の推薦や、全国大会ベスト4クラスのアスリート達のスポーツ推薦など、一部の推薦を除いて、AO入試を始めとしたこれらの推薦は結果的に大学の評価を落とし、進級すらできない生徒を量産する温床となっているのが現実です。
したがって、「『個性』を伸ばす」というコトは、まずそれ以前の「基礎能力がしっかり出来ている」コトが絶対条件です。
先ほどの柔道に限らず、運動であれば「食事」や「筋トレ」が「基礎能力」となります。
対象が変わればもちろん「基礎能力」も変わります。
そのため、何が「基礎」となっているのかを見分ける必要があります。
繰り返しになりますが、「個性」を育てる際は、その核となる「基礎能力」があるかどうかをしっかり見極めた上で始めた方がイイです。
次回はこの続きとして、「個性至上論」を唱える人の特徴を述べて、そこから何らかのTheoryを導こうと思います。
最後まで読んでいただきた方、ありがとうございました。
Theory10-対話・議論のコツ③-
前回のTheoryを掲載した日とその翌日、アクセスの多さにビックリしました。
こんな19才の拙く、堅苦しい論文もどきのブログをたくさんの方々に見ていただき、至極光栄です。
皆様本当にありがとうございます。
ペタして頂いた方にも感謝申し上げます。
これからもよろしくお願いいたします。
アクセス数に突き動かされて、感謝のしるしとして睡眠時間返上で書き上げました。
6000字近い自称「力作」です。
少し遅れましたがお許しください。
では、「中立」と「曖昧」の第3弾です。
今回は、「中立」「曖昧」「止揚」を、「思考」という観点から見てみようと思います。
概略を示すと、「最終結論を二択にする事が可能な質問の場合、私たちの思考は『曖昧』から始まり、紆余曲折の『止揚』の末に『中立』に辿り着く場合が多い」というコトになります。
今回も例を出して説明します。
私たちは今から「自民党と民主党、どちらが政権運営を進めていくべきか」というテーマで議論を始めるとします。
この場合、最終結論は「自民党」あるいは「民主党」となります。
では、私たちがどのように思考するかを考えてみましょう。
まず、いきなりこのような問題について議論しろと言われても、私たちがすぐに結論を出せる可能性はほぼあり得ません。
この時点で大抵の方の考えは、「どちらとも言い難い」という状態でしょう。
何せ、私たちは今何も考えていない状態である上に、判断基準となる資料や知識等も不足しているからです。
思考の初段階は「曖昧」です。
では、これらの不足分を議論で補っていくコトにしましょう。
まずは、自民党・民主党それぞれに政権運営をさせるメリット・デメリットを列挙していきます。
「小泉政権時代に『美辞麗句で国民を騙した』とまで揶揄され、安倍・福田両総理の無責任かつ理不尽とも言える辞任劇が続いた。もはや自民党を支持する国民はどれほどいるだろうか」
「データを見ても、国民の多くは民主党支持に回っている」
「だが自民党は長年与党という立場を保っており、いきなり民主党に第一党を任せるのは不安だ」
「民主党は自民党に何か不祥事がある度に政権交代を標榜するが、それだけでは政策に何も具体性がない」
「民主党支持を掲げる人の中にはミーハーも多く、いったいどれほどが民主党の政策について具体的に語れるだろうか」
「自民党の官僚、特に大臣は不祥事を起こしすぎた。裏金の話も絶えない昨今、綱紀粛正という意味合いでも、自民党は第一党から退くべきなのでは?」
「しかし不祥事だけなら民主党も分からない。自民党のスキャンダルのせいで表面化していないだけなのでは?以前の前原代表のような事態が起こっても何ら不思議ではない」
と、政治的アパシーの私がパッと考えてもこれくらい浮かぶワケですから、政治に関心のある方々が数人で議論すればかなりの意見が出そうです。
このように反対意見を次々と提示していくコトで、止揚への材料も増えていきます。
ただし、ココでのの「止揚」という作業はあくまで「建設的」を目指すものであり、幼稚で滑稽な揚げ足取りのような行為はイチバン場をしらけさせますのでご注意を。
ココは反対意見を持つもの同士の双方がナットクいくような意見を捻出する場であって、そういう場に批評家気取りは必要ありませんし、むしろジャマです。
では、先ほどの例で双方がナットクいくような意見を捻出してみましょう。
今の会話で止揚の材料となりそうな一対の事象は、
自民党:
「スキャンダル等による国民の支持率の低さ」⇔「長年第一党を守ってきた伝統と実力・手腕」
民主党:
「ミーハーを含むが、国民の支持率の高さ」⇔「政策の不透明さ、政権交代を叫びすぎる」
といった感じでしょうか。
双方ともに一対の事象を止揚すると、
自民党:
「第一党を保ってきた優秀な政治手腕や政策を前面に出していき、かつその内容はあくまで(本当の意味での)国民目線を意識し、用途が不透明な金は極力無くす」
民主党:
「国民の民主党に対する関心の高さを勢いに変えて、政策を極力具体的に(国民にわかるように)提示し、(自民党を批判するだけでなく)政策の質の良さで自民党に対抗する」
となります。
ココでは少々具体性にかける結論となっていますが、それはもう少し深く議論すれば解消されるでしょう。
では、最終結論はどうなるのか。
偏りがない限り、皆さんはこう思ったのではないでしょうか。
「先ほど挙げた二つの止揚後の結論を遂行してくれるなら、正直どちらでも構わない」
答えは「中立」となるのです。
「自民党が今の課題を克服してくれるなら自民党、民主党がそうなら民主党」という「中立」の答えは、「対話・議論」をしていく上での「止揚」の連続の末に導き出される答えです。
ただ、時には「最終的にどちらかに決めて投票しなければいけない」という条件も存在します。
そんな中、ココまで議論が進み、「中立」の立場・双方の利点を分かった後で、「でも自分は民主党のこういう点が気に入ったから民主党かな」といったような主観が入ってどちらかに投票、という形を取れれば素晴らしいですね。
「わたしたちとまったく反対の意見を持つすべての人が、それゆえに野蛮で未開だというわけでなく、それどころか、多くの人がわたしたちと同じかそれ以上に、理性を働かせている」
コレはデカルトが『方法序説』の中で述べたコトバです。
片方を批判するコトでもう片方を推すのではなく、お互いのイイところを冷静に分析し、見つめた上で判断ができるような人になりたいものです。
最後に、デカルトは『方法序説』でさらにこのようなコトバを残しています。
「わたしは、等しく受け入れられているいくつもの意見のうち、いちばん穏健なものだけを選んだ。
一つには、あらゆる極端は悪いのが通例であり、穏健な意見は行うのにいつも都合がよく、おそらくは最善であるからだ。
また一つには、穏健な意見に従えば、やりそこねた場合にも、両極端の一方を選んだあとにもう一方をとるべきだった、とわかるよりも、真の道からの隔たりが少なくてすむからだ」
「中立」「止揚」の重要性は、時を越えても変わりませんね。
なお、コレはTheory1「思考による極端化」と矛盾するかと思われますが、それは違います。
「思考による極端化」は上級者にのみ現れる法則で、「極端」になる理由は「中立」を考えた後の「主観」の入り具合が強いからです。
言い換えれば、「極端化」はあくまで「あらゆる事象を使っての、双方の綿密な比較検討を思考」した上での「自信」からくるものなのです。
最初から反対の意見を見ないのは、「思考による極端化」には当てはまりません。
なぜなら、よい「思考」の中には必ずと言ってイイほど「止揚」のプロセスが存在するからです。
長くなりましたが、コレで「対話・議論のコツ」を終わりにしたいと思います。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
こんな19才の拙く、堅苦しい論文もどきのブログをたくさんの方々に見ていただき、至極光栄です。
皆様本当にありがとうございます。
ペタして頂いた方にも感謝申し上げます。
これからもよろしくお願いいたします。
アクセス数に突き動かされて、感謝のしるしとして睡眠時間返上で書き上げました。
6000字近い自称「力作」です。
少し遅れましたがお許しください。
では、「中立」と「曖昧」の第3弾です。
今回は、「中立」「曖昧」「止揚」を、「思考」という観点から見てみようと思います。
概略を示すと、「最終結論を二択にする事が可能な質問の場合、私たちの思考は『曖昧』から始まり、紆余曲折の『止揚』の末に『中立』に辿り着く場合が多い」というコトになります。
今回も例を出して説明します。
私たちは今から「自民党と民主党、どちらが政権運営を進めていくべきか」というテーマで議論を始めるとします。
この場合、最終結論は「自民党」あるいは「民主党」となります。
では、私たちがどのように思考するかを考えてみましょう。
まず、いきなりこのような問題について議論しろと言われても、私たちがすぐに結論を出せる可能性はほぼあり得ません。
この時点で大抵の方の考えは、「どちらとも言い難い」という状態でしょう。
何せ、私たちは今何も考えていない状態である上に、判断基準となる資料や知識等も不足しているからです。
思考の初段階は「曖昧」です。
では、これらの不足分を議論で補っていくコトにしましょう。
まずは、自民党・民主党それぞれに政権運営をさせるメリット・デメリットを列挙していきます。
「小泉政権時代に『美辞麗句で国民を騙した』とまで揶揄され、安倍・福田両総理の無責任かつ理不尽とも言える辞任劇が続いた。もはや自民党を支持する国民はどれほどいるだろうか」
「データを見ても、国民の多くは民主党支持に回っている」
「だが自民党は長年与党という立場を保っており、いきなり民主党に第一党を任せるのは不安だ」
「民主党は自民党に何か不祥事がある度に政権交代を標榜するが、それだけでは政策に何も具体性がない」
「民主党支持を掲げる人の中にはミーハーも多く、いったいどれほどが民主党の政策について具体的に語れるだろうか」
「自民党の官僚、特に大臣は不祥事を起こしすぎた。裏金の話も絶えない昨今、綱紀粛正という意味合いでも、自民党は第一党から退くべきなのでは?」
「しかし不祥事だけなら民主党も分からない。自民党のスキャンダルのせいで表面化していないだけなのでは?以前の前原代表のような事態が起こっても何ら不思議ではない」
と、政治的アパシーの私がパッと考えてもこれくらい浮かぶワケですから、政治に関心のある方々が数人で議論すればかなりの意見が出そうです。
このように反対意見を次々と提示していくコトで、止揚への材料も増えていきます。
ただし、ココでのの「止揚」という作業はあくまで「建設的」を目指すものであり、幼稚で滑稽な揚げ足取りのような行為はイチバン場をしらけさせますのでご注意を。
ココは反対意見を持つもの同士の双方がナットクいくような意見を捻出する場であって、そういう場に批評家気取りは必要ありませんし、むしろジャマです。
では、先ほどの例で双方がナットクいくような意見を捻出してみましょう。
今の会話で止揚の材料となりそうな一対の事象は、
自民党:
「スキャンダル等による国民の支持率の低さ」⇔「長年第一党を守ってきた伝統と実力・手腕」
民主党:
「ミーハーを含むが、国民の支持率の高さ」⇔「政策の不透明さ、政権交代を叫びすぎる」
といった感じでしょうか。
双方ともに一対の事象を止揚すると、
自民党:
「第一党を保ってきた優秀な政治手腕や政策を前面に出していき、かつその内容はあくまで(本当の意味での)国民目線を意識し、用途が不透明な金は極力無くす」
民主党:
「国民の民主党に対する関心の高さを勢いに変えて、政策を極力具体的に(国民にわかるように)提示し、(自民党を批判するだけでなく)政策の質の良さで自民党に対抗する」
となります。
ココでは少々具体性にかける結論となっていますが、それはもう少し深く議論すれば解消されるでしょう。
では、最終結論はどうなるのか。
偏りがない限り、皆さんはこう思ったのではないでしょうか。
「先ほど挙げた二つの止揚後の結論を遂行してくれるなら、正直どちらでも構わない」
答えは「中立」となるのです。
「自民党が今の課題を克服してくれるなら自民党、民主党がそうなら民主党」という「中立」の答えは、「対話・議論」をしていく上での「止揚」の連続の末に導き出される答えです。
ただ、時には「最終的にどちらかに決めて投票しなければいけない」という条件も存在します。
そんな中、ココまで議論が進み、「中立」の立場・双方の利点を分かった後で、「でも自分は民主党のこういう点が気に入ったから民主党かな」といったような主観が入ってどちらかに投票、という形を取れれば素晴らしいですね。
「わたしたちとまったく反対の意見を持つすべての人が、それゆえに野蛮で未開だというわけでなく、それどころか、多くの人がわたしたちと同じかそれ以上に、理性を働かせている」
コレはデカルトが『方法序説』の中で述べたコトバです。
片方を批判するコトでもう片方を推すのではなく、お互いのイイところを冷静に分析し、見つめた上で判断ができるような人になりたいものです。
最後に、デカルトは『方法序説』でさらにこのようなコトバを残しています。
「わたしは、等しく受け入れられているいくつもの意見のうち、いちばん穏健なものだけを選んだ。
一つには、あらゆる極端は悪いのが通例であり、穏健な意見は行うのにいつも都合がよく、おそらくは最善であるからだ。
また一つには、穏健な意見に従えば、やりそこねた場合にも、両極端の一方を選んだあとにもう一方をとるべきだった、とわかるよりも、真の道からの隔たりが少なくてすむからだ」
「中立」「止揚」の重要性は、時を越えても変わりませんね。
なお、コレはTheory1「思考による極端化」と矛盾するかと思われますが、それは違います。
「思考による極端化」は上級者にのみ現れる法則で、「極端」になる理由は「中立」を考えた後の「主観」の入り具合が強いからです。
言い換えれば、「極端化」はあくまで「あらゆる事象を使っての、双方の綿密な比較検討を思考」した上での「自信」からくるものなのです。
最初から反対の意見を見ないのは、「思考による極端化」には当てはまりません。
なぜなら、よい「思考」の中には必ずと言ってイイほど「止揚」のプロセスが存在するからです。
長くなりましたが、コレで「対話・議論のコツ」を終わりにしたいと思います。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
