只今より当方の競馬活動歴40週年+JRA70周年として、JRA創立日の今日より、不定期で数回程度を予定してますが「独断と偏見で厳選!!想い出の日本競馬」を開始しました!!
 

1回目は小学校入学式直前で暇だったのでテレビを点けて勝手に見た際に、たまたまテレビで第44回桜花賞の中継がやっており、それを見て競馬に興味を持った、言い換えれば当方をこの世界に引き入れた契機を作った競走馬・ダイアナソロンを取り上げさせて頂きます。

尚、馬齢は2000/12/31迄の旧表記とさせて頂きますので御了承の程宜しく御願いします。

ダイアナソロンと言えば、曽祖母に殺処分寸前まで追い込まれたクモワカ(あのテンポイントやキングスポイント等の祖母としても名が知られて居る)を持っており、もしクモワカが殺処分されていれば、テンポイントやキングスポイント等と同様にこの世に生まれて来る事は有りませんでした。

母の血統を辿るとクモワカ→オカクモ→ベゴニヤ→ダイアナソロンの順で生まれました。

 

大島秀元氏が馬主として所有し、デビューに当たり、栗東TCの中村好夫厩舎に所属と成りました。

デビューより桜花賞迄の成績を簡潔に記す(馬場状態やタイム等の詳細は割愛する)と、

1983/9/11 阪神 旧・3歳新馬 芝1200m 1着

1983/10/2 京都 萩特別 芝1400m 1着

1983/12/25 阪神 シクラメン賞 芝1600m 8着(初の着外負け)

1984/2/5 京都 エルフィンステークス 芝1400m 1着

1984/3/18 京都 報知杯4歳牝馬特別 芝1400m 6着

と、着外2回乍らも残る3戦で1着に入る比較的良好な成績を残してました。

さぁここでいよいよ当方が初めて競馬を観る様に成った第44回桜花賞、以下に他者が動画サイトYouTubeに上げてた映像を添付しますので、下記YouTubeリンクに有る映像を御覧頂ければ幸いです。

 

 

この競走、当方もザミヤビレディーがゲートインを嫌って居る場面も覚えてましたが、それは兎も角、当のダイアナソロンは第3コーナーを通り切って第4コーナーとの境目に入った際に先頭に出て来て以降、後続との差を引き離しに掛かりるものの、最後の直線でロングレザーとロングキティーの5枠の2頭(この2頭は馬主も同一の方<中井長一氏>)が追い込んで来たものの、時既に遅く、何と5馬身差で楽勝と相成りました。

この1着を達成した、ダイアナソロンに騎乗した当時のスター騎手だった田原成貴氏が高らかに右手を大きく挙げて勝利をアピールした事に魅了され刺激も受けた事から、小学校入学と同時に「当時は解らない成りにも競馬を楽しもうか」と言う感覚でしたが、競馬を趣味とする事を決断しました。

当時は趣味で終わる予定でしたが(今は研究活動も少しやって居りますが)、この当時は後々に研究活動に発展する事は疎か、ここまで競馬に関する情熱が強く成る事は想像すらしませんでしたが、これが当方の初めて見た競馬でした。

 

ダイアナソロンはその後も活躍するも、オークスで2着に沈んだ後はサファイアステークスで1着に成ったものの、その後は3着4回と最下位が1回(その最下位は第4回ジャパンカップ)と好走はするものの勝ち切れ無くなったのは残念でしたが、無事に競走生活を終えて繁殖牝馬と成りましたが、しかし産駒に余り良い競走馬を輩出する事無く、1994年に死亡してしまいました。

 

当方を競馬の世界に引き入れた想い出話に成ってしまい、大変申し訳の無い限りでしたが、それだけこの競走馬に思い入れが有るので、敢えて書かせて頂きました。

最後まで御覧に成り当方は本当に感謝して居りますよ。

次回のネタはどうするか検討したく思いますよ。
それでは第1回目の企画記事は終了です。

随分久々の投稿に成りました。

当方、多忙で有ったのと他の趣味にうつつを抜かしてた上に、Amebloのパスワードを先日迄失念して居たので長い事ブログが書け無かった事を御詫び申し上げます。

閑話休題。当方は去る4月に競馬趣味~研究活動開始40周年(何と小学校入学の昭和59年の7歳前より競馬中継を見てるんだよな!!)及び本日9/16の日本中央競馬会創立70周年を記念して、今回より数回程度には成りますが、当方の想い出の競走馬・競馬名場面・珍場面・日本競馬史上の不思議等、思った事を書かせて頂きたく思いますので、第1回の記事に乞う御期待を!!

超長期間、このブログを放置しまくってしまい、閲覧者の方々に御迷惑と御不快感を与えた事を御詫びします。

そう言ったメッセージが今月に入り数人から来てたんだよなぁ…。

ワシは去年冬よりブログの記事書くネタ無かった事も有り此処にアクセス出来なかっただけなんだがなぁ…。

と言う事で今年最初の記事は皆さまへの御挨拶より開始したく存じます。

私事乍ら当方は2024年4月8日に競馬に興味を持って、その後研究をする様に成って満40周年を迎えました。

ソレは兎も角、7歳誕生日手前で競馬の趣味や研究を開始してからの40年を振り返ると、上記の危機も有った中で「良くこう言う活動を続けられたねぇ…」と自分でも驚いておりますよ。

えぇ…。非常にねぇ…。

最初は交通系やクイズ関連での趣味の比率が多かった事も有り競馬の趣味はそんなに長続きしないだろと感じてましたが、10歳の頃に後の養父と出会い、子供の分際で競馬の話を後の養父が詳細に教えてくれた事で、徐々に趣味から研究に移行する事に成り、それ以来自分で調べたり競馬中継等の番組を見たりして、学校の勉強をやりながら競馬の勉強もしてました。

養父が実母と再婚した1992年の翌年に当方は高校に入学したのですが、その年の夏休みに養父より衝撃的な事を聞いて以降、競馬研究をより深度化させ、それ以来1960~1970年代、特に「TTG」を中心に、数々の名馬や各種記録を調べる様に成り、現在に至って居る訳で御座います。

又ネットのUser様や各種の知人やその他面識の有る者や競馬関係者など、ネットで知った各位さまからの御協力が有る事も、当方の競馬研究活動を継続可能な環境にしてくれているので、それ等の方々には大変心底より深く感謝して居りますので、この場をお借りして心底より深く又厚く御礼と申し上げたく思いますと同時に、この先も何らかの形態で支援や協力を求める場合も有るかと思いますが、その際には可能でしたら御協力頂けると幸いです。
尚、当方の思想面も口も汚いXのアカウントを御覧の方は御存知と思いますが、このブログで競馬趣味及び活動開始40周年を迎えたので、今月よりそれに関連する話題や企画を検討開始しました。

ブログや競馬に関してこう言った事を書いて欲しいと言うのが有れば一部でも取り入れてみたく思いますので、御意見及び御要望がもし有りましたら、メッセージで送って頂いても結構です。

今後も皆様と共に競馬関連の研究を継続したく思います。

以上、簡単且つ挨拶にも成って無い!?挨拶で御座いました。

随分間が空きました。

Twitterで数時間前に宮城在住のある屑野郎な比例のリプライはあり、反論や謝罪を言う時間すら与えずにブロックされてしまい、仕返し的に!?パヨク且つしばき隊信者認定をしてやりましたわよ。

咲霧と言う事象14歳で実年齢は30前と思われる屑野郎でしたよ(これ以上言うと中傷になるので言いませんが、反論しようとしたらTwitterの制限が掛かり反論不可能になってストレスと更なる怒りが溜まりましたよマジで。これについてはTwitter上で、右翼らしく圧力の意味で罵倒をする計画でいる訳であります)。

気分直しにTwitterが動くようになる48時間の間、杉本清氏の実況が収録されたYouTube動画なり、プライベートなことしか書いてないFacebookでもやっときますわ…ほんまに。

 

本題に入ります。

2ヶ月程度前、週刊競馬ブックの「一筆啓上」と言うコーナーにこう言うことが書かれておりました。

記事をお書きになられたのは元サンケイスポーツ記者の武豊騎手番で現在はゼンノマネジメントでレーシングマネージャーをされている片山良三氏でした。

「こう言うこと」の内容は、片山氏の記事の内容を要約して言えばですが、JRAでの制裁には戒告→過怠金→騎乗停止の順で制裁の規模は大きくなるのですが、NARでの制裁については戒告→騎乗停止であり、中間に位置する過怠金の制度が全くないと言う点です。

これは私も初耳でした。

NARの制裁はあまり外部に公表していないと言うのを差し引いても、これを今まで無知だったのは、日本競馬史研究者である私の不徳の致す所でありました。

まだまだ、日本競馬の勉強が足りませんでしたね…。

しかし、過怠金制度はNARにも採用してもいいのではないかと個人的に思うのですわね…。

競馬関係者、特に騎手より過怠金を取ることによって、NARやその下部組織相当の各地方競馬組合は少しの足しになるでしょうし(と言っても、採用したとしても恐らくは取り分についてはNARと制裁の対象事案が起きた競馬場の主催団体と折半するだろうから、数百~数千円程度にしかならないであろう)、騎手は過怠金を取られない様に対策を練ったり安全性を向上させたりするでしょうから、NARでの過怠金制度の新設はメリットがあるのではないかと思うのですが、どうなんでしょうかね?
可能であれば、この件に関しての各競馬研究者や競馬関係者及び競馬記者各位の意見や評論をこのブログ記事にコメントして欲しく思いますわね…。

 

今日はここまで。

4月は多忙と軽い病気もありブログを放置状態にしていたことをお詫びします。

多大な心配と苦言が一括して書かれていたメッセージがあって放置状態に気付きました…。

さて先日、本当は聞きたくもなかった残念なニュースが入ってきました。
JRAでは、京都競馬場の「新装開店」による祝賀ムードに水を差す、女性騎手5人+男性騎手1人がスマートフォンを持ち込みそれを操作したことで30日間の騎乗停止処分となったそうです。

上記に日刊スポーツの記事を出典として出しときます。
処分内容に賛否両論があり、また一部騎手がその後この件を謝罪していたのを確認しましたが、それは機会があれば書くことにして(まーないだろ)、個人的には、そろそろJRAでの裁決委員が専決で出せる過怠金と騎乗停止の上限をそれぞれ引き上げる時期に来ているのではないかと思いますね(これはNARにも言えることではあるが)。
他の公営競技ではうっかり通信端末を持ち込んでも=例え悪意がなくても最低でも半年間は出場停止処分を受けるので、これとのバランスを欠いているようにも見えますし。

処分の上限や権限強化案は、まとまり次第、少しのみではありますがこのブログで伝える予定でいますので、しばらくお待ちをお願いします。

しかし今回の行為で、特に女性騎手ファンにとっては残念なことになったでしょうね…。

なんせ少なくとも向こう1ヶ月間は皆さまの人気者である今村聖奈騎手を筆頭とした大半の女性騎手が見れなくなりますし…。

私もこう言うことが起きて、一般人ながらも競馬史研究者として本当に残念無念と思いますよ。

この先数ヶ月間はネットを中心に中傷があるでしょうが、男性騎手で唯一処分を受けた角田大河騎手を含めて、処分対象者には騎乗停止中に反省して、復帰後にそれを打ち返すような活躍を見せてくれることを待つしかないですね…。

いやぁー、恐れ入った。恐れ入りました。

日本時間土曜深夜のドバイワールドカップではウシュバテソーロが優勝しました。

今回のメンバーではまた日本馬は勝てないだろうと思っていただけに意外でした。

しかし日本馬の勝利だと本当に自国での盛り上がり方が違いますよね。

ウシュバテソーロ陣営の皆さま方、本当におめでとうございました。

本題に入ります。

私は少し病気していたこととここ数ヶ月日本競馬史研究を年度末の多忙とアイドルさんへのSNSでのレスポンスを一気に解消する役目とネタ切れ状態となっていることで、SNSでの日本競馬史および私が小学校入学と同時に崇拝しているアナウンサーである杉本清氏の話題もご無沙汰になっている所存であります。

また競馬史研究再開の暁には、少ししかやれておらずに2012年以来休止していた競馬アナリスト的活動も再開したいですね。

日本競馬に言いたいことやアイデアを出したいこともテンコ盛りありますしねー。

来月5日はグリーングラスの、15日はトウショウボーイの、19日はテンポイントの50歳の誕生日となりますので、久々にTTGの話題もしたいなと思ったりしますね。

それでは、競馬ネタ再開まで暫しのお待ちをお願いします。

随分間隔が空いてしまいました。
大分待たせてしまったことを心底より深くお詫び申し上げます。

今日は1月22日。
だから何なのか?。
いや、何なのかで済ませてはならない、去年も書かせて頂いた、あの京都競馬場第9競走で施行された第25回日本経済新春杯に於ける、テンポイントの大事故の日だったのです。

それは45年前のこの日の14時58分頃でした。

以前私はこの事故の諸説を書かせて頂きました。
それは覚えている方もいらっしゃるとは思いますが、最近ここに来られた方もいらっしゃる可能性を考慮して、それを書いたURLを再掲しときます。
昭和53年1月22日・第25回日本経済新春杯におけるテンポイントが故障した要因の各説を述べる。 | 日本競馬史研究家による、何でもありのブログ (ameblo.jp)

↑こちらになります。

話題を45年前に戻しましょうか。

テンポイントの日本経済新春杯(現・日経新春杯)の実況は、当時関西テレビアナウンサーであった杉本清氏のものが一番有名ですが、ここで紹介されている、当時は日曜日の競馬は現在とは異なりラジオ中継だった頃の近畿放送(現・京都放送。1982年より放送局の愛称「KBS京都」を使用開始)の小崎愃氏の実況もなかなか秀逸のものでした。

向正面での実況で「世界のアイドル。テンポイント」と賞賛してました。
ところが皆様ご承知の通り、その約1分後に称賛は一転して大悲劇に転落してしまいました…。

さすがに小崎氏もここまでは思ってはいなかったでしょうが、その実況が動画サイトにありましたので紹介しておきたく存じます。
なお、この動画サイトの映像は「不滅の名馬テンポイント」のビデオ映像の実況部分を本来の関西テレビの実況を動画サイト投稿者が近畿放送のものに差し替えたもので、テンポイントが故障した所でカットされていますが、充分に格好のいい実況だと思いますよ。
こちらになります↓
【ラジオ競馬実況】斤量66 5kgテンポイント最後の雄姿~1978年日経新春杯 実況:小崎アナ - YouTube
末筆になりましたが、45年前に遡らせて頂きますが、テンポイント号およびその関係者各位さまに対しまして、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

ブログ更新があまりできず失礼しました。

書くネタは少しはあるのですが、収取選択に手間取りましてねぇ…。

そんなことはさて置くとしようか。

本日は私が初めて知ったり見たりし始めた競馬と言うのは何なのかと言うのを書かせて頂きたく思います。

私が競馬に興味を持ったのは、小学校入学時とほぼ同時に、見たいテレビ番組が特になかったので適当にチャンネル回したら競馬中継をやってたのでこれでもいいやと思って見た、しかしそれは見終わった数時間後に格式の高いレースかつ日本で初のGI競走だった第44回桜花賞でした(勝ち馬・ダイアナソロン)。

そのゴール時に騎手・田原成貴氏が手を挙げて勝利をアピールした場面に魅了されて競馬趣味を始めました。

小学校1年時にはテレビで少し勉強する程度でしたが、その時はまさか、翌年に競馬場で観戦することになるとは全く思ってませんでした。

ここより本題。

では私が初めて競馬場で観戦したのは何だ?

実を言うと、これは1985年の第46回菊花賞でした。

私は菊花賞以外のレースは混雑していたことと、私自身の単独行動が迷子防止で当時は認められず、家族との同行が条件であったので見れませんでしたので、菊花賞1レースのみ見ましたが、しかしパドックで見た18頭を見て、サクラサニーオーとトレードマークのいずれかが1着と2着になるであろう(8歳児ごときの俺が当時予想する能力がなかったのでパドックの馬の毛艶か何かで判断したかと思う。間違っても超初心者などによくあるようなな、名前がいいからとかカッコいいからとかと言う超安易で決めることは当時でも嫌だった)と判断し、それを2年後に離婚した実父に伝えたら、どう言う訳かその当てにならない予想を信じて連複(現・枠連)の7-8を100円分のみ買ったことが印象に残りました。

しかし、皆様ご存知の通り、あのシンザン産駒では晩年の時期でのデビューでしたが、しかしシンザン産駒最大にして最高の競走馬であった、ミホシンザンが勝利し、初予想は撃沈してしまいました…。

しかしサクラサニーオーも2着に入る寸前まで粘り(結局は芦毛の追込馬スダホークに最後の最後で交わされ3着)、トレードマークも5着に入ると言う大健闘を見せた(しかしトレードマークはこれがGI出走最後であった)ので、最初にしては我が予想もいい線は行ってたかと、妙に納得しましたよ。

なお、それ以来私はミホシンザンに思い入れがありましたが、翌年の日経賞を負けた後で骨折を発症し、第93回天皇賞・春は断念(何故かこの時も競馬にさして興味ない実父が私達家族を引き連れて観戦したが、その時も第46回菊花賞に出走していた競走馬の数頭がこの競走にも出走していた)してしまったのが残念でした。
翌年の第95回天皇賞・春には出走しましたが、しかしこの時、かつての国鉄の労使問題のごとく、家庭環境が著しく悪化し、両親が離婚するなど家庭事情で一時的に競馬を離れざるを得なくなったことから、このレースを見たのはその年の年末にテレビでやっていた特別番組でした。
競馬研究活動は1988年夏競馬開催と同時に復帰しましたが、この空白期間を埋めるために、過去の放送やビデオをレンタルビデオで借りまくっていたことを覚えていますね。

本日より11月ですが、11月1日と言えば、思い出したくもない、しかし日本競馬史上忘れてはならない、あのサイレンススズカの故障が発生してしまった日でした。

1998年11月1日、東京競馬場で開催された第118回天皇賞に出走したサイレンススズカは、第2コーナーを過ぎて向正面=バックストレッチに入ると後続の馬を大きく引き離す大逃げを展開し、それはまさに一部競馬ファンより「和製セクレタリアト」と言われていた(言っておくがこの名付け親は私ではない)ぐらい、2番手にかなりの差をつけていました。

ところが、第3コーナーを通過して第4コーナーとの境目に入る手前で故障が発生してしまい、急失速した後に競走を中止し、一気に天国から地獄に落ちた悲運の競走馬となってしまいました。
診断の結果、 左前脚手根骨部分を粉砕骨折していたため、治療は不可能と判断され、その場で安楽死となってしまいました。

サイレンススズカは、典型的な逃げ馬としてインパクトの高い競走馬でしたが、もし無事であれば今頃は種牡馬になっていたであろうかと思いますよ(ただし今存命であっても高齢なため種牡馬は引退して功労馬になっている可能性もあるが)。

本当に、残念な事故だったと言えましょうか。
当時のフジテレビの実況映像が(本来は著作権法違反で好ましくないのだが)動画サイトにあったので紹介しときます。

 

 

久々にアメーバブログで記事を書かせて頂きます。

読売新聞オンラインの記事↓

 

 

によれば、今月17日、老衰により中央競馬の名伯楽の1人であった、元騎手で元調教師の伊藤雄二氏が85歳で逝去されてしまいました。

調教師の成績のみですが、重賞77勝を含み、2007年までの定年退職の間までに1153勝を挙げました。

伊藤氏と言えば女傑競走馬エアグルーヴを筆頭に、牝馬三冠を寸前で逃してしまったマックスビューティ(実は1987年のローズSで勝利した瞬間をうちの近所の京都競馬場で実見していた)やダイイチルビー、そして伊藤氏管理馬として東京優駿制覇を成し遂げたウイニングチケットなど、多数の名競走馬を輩出されました。
2014年にJRA顕彰者となって競馬殿堂入りしたことで、世代を問わず各方面より多大な評価を得たJRA関係者と言えましょうか。

伊藤雄二氏に対しまして謹んでお悔やみ申し上げます。
本当に今までご苦労様でありました。