歴史街道という雑誌を読んだ。
時の権力者に刃向かったり、時には傭兵として各地の大名に雇われた紀州【雑賀衆】は、火縄銃の技術に長けていた。
簡単に言えば、グループ単位で行動し、火縄銃と言えども連射ができたと言う。
そして、記事を読み、あれっと思ったことがある。
雑賀衆の旗印が【三足烏】とは・・・・・
また、兜が【雑賀兜】という、どこか大陸的な兜。
韓国人なら、私と同じ事を考えると思うが、【三足烏】は、実は高句麗また百済の王家のシンボル。
高句麗の建国の王【東明聖王・朱蒙】、日本でもドラマが放映されました。
この【東明聖王・朱蒙】の長男(正妻の王子)は高句麗の2代目の王、弟(側室の王子)は南に逃れ百済を建国する。
どちらも扶余族、実際に百済の始めの都(現在のソウル郊外)から、高句麗と同じ遺品が出土する。
何か、雑賀衆と関連が有りますかな?
ロマンを感じますね。【三足烏】
10年ほど前、ある小説を読んだ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で、雑賀衆が加藤清正の軍に従い韓国を転戦する。
この雑賀衆は雑賀(鈴木)孫市の息子、鈴木孫二郎と言われていた。
雑賀(鈴木)孫市は、織田信長の本願寺攻めで、本願寺側につき戦っている。
・・・・・が、鈴木孫二郎が韓国に寝返り、降倭となり韓国に火縄銃の技術等うを伝え、自らも日本と戦う。
韓国では沙也可と呼ばれている。
実は、沙也可の子孫が、韓国慶尚道の大邱(テグ)郊外【友鹿洞】に住んでいる。
近年、【友鹿洞】を訪れる日本人が多いと言うが、
【友鹿洞】には、日本的な要素が、多数見られるという。
明治初年、伊藤博文は【友鹿洞】と沙也可の子孫についての情報を握りつぶしたと言う。
一昨日、読んだ雑誌に書かれた雑賀衆は、何やら韓国人的な性格のようにみられる。
テグは、慶州(キョンジュ)から近いですよ。
友鹿洞を見ると、韓国と日本の近さを感じます。
いや、慶州(キョンジュ)にも降倭の子孫がいる。
また、日本人を見ていて・・・・・
韓国人と間違える人もいる。
・・・・・言うと、だいたい怒りますよ。