たあさん&梅ちゃんの大人の遠足は
こないだで3回目を迎えた。

初めはほんとに仏像にも全く興味のなかった私が…

「最近不動明王さまが大好きになった。」

えーーーっ!('ロ'('ロ'('ロ'('ロ' )!!!
自分で書いててなんか照れる。笑笑

前にも書いたけど
こないだリトリートをさせていただいた大福院は
ご本尊が不動明王で…
お前立ちの背後にある厨子の中の
ご本尊を拝観させていただいたときの感動を
実は…
何度も何度もフィードバックして
思い出している。(*´艸`*)

ご本尊のお不動さんは
背後にあるはずの炎がなく
手に剣も持っていない。(今は僧侶の眞圓さんが作られた剣を持っている)

これって
とても無防備なお姿だなぁと思う。

と、同時に
このお姿こそが私たち人間そのものなのではないかとも感じる。

「何も持たない」ことが
人間本来の姿なのではないかなぁ…と。

何も持たないから
誰かが誰かを守る。
誰かが誰かに守られる必要があるから
その機会を与えられる。

何も持たないことは
実は
最強だ。

母と子であったり
パートナーであったり
目には見えない存在であったり…
みんなで支え合って守り合うことが必要になる。

お前立ちのお不動さんの炎が
ご本尊の炎となって映し出されたとき
それを見える形で教えていただいた気がした。

その時のことを思い出すと
「私の炎であなたを全力で守るよ」と
お不動さんの強い意志でを感じる。

だから無防備でいなさい。
無邪気でいなさい。と。

お不動さんは
キラキラのどこからか降り注いでくるような
愛ではなくて…
人間が土臭く、いろんな欲にまみれ、
もがき、苦しむ、
いわゆる闇と呼ばれるようなところで
儚さや、情けなさや、やるせなさを感じながら…
それでも生きていく私たちの姿を
全力で守ってくださっている、そんな愛だと感じていて…

人間はやっぱり「そこ」に居るんだな。
「そこ」でせめぎ合いながら生きているから人間なんだな…って。

そう思うと
お不動さんがとても身近に思えたんだ。

梅ちゃんの妄想説法(もはや妄想の域を超えているが…)の中で
このお不動さんの炎は
もうこれ以上落ちたら地獄であるから
地獄の炎で我が身が焦げようとも全力で守っているんですよ。
だから、真っ黒や真っ赤な色をしていることが多いんです。
また、その睨みを利かせた形相は、その必死さを表しているんです。と伺ったことがある。

そして、お不動さんの中には
頭に蓮の花を乗せていらっしゃる姿のものもあり…
それは地獄に落ちそうになっている人々をお救いして、観音さまのところまで浮上させてくださるためであり、

お不動さんのいらっしゃる「硬い」岩は
地獄の蓋で
その「人々を守る」意思の「堅さ」にも通じるものがある。と
教えていただいた。

しばらくして
私が何かの話の流れで梅ちゃんに
「お不動さんが最近好きになった」という内容のメッセージをしたらこんな返事をいただいた。

「僕、思うんやけどね~。
前にもコメントで書いたけど、
たとえば、剣も炎もなくなるくらい、泥にまみれてがんばってくれたんやな、と思ってそれを文章とかにすると、それがまた不動さんに力を吹き込むんじゃないかな、と。

お経なんてあとからできたもので、できたものを延々と唱えることでひとつの場が確立されたと想像するんよね。

であるならば、昔のお経だけがすごいんじゃなくて、僕らの不動明王に対する思いとか感謝とかが、新しい今のお経になっていくんじゃないか、って。

そういう意味で、遠足で話しを聞いてもらって、それがこんなふうに染み込んでいくんであれば、それこそ生きたお経になるんじゃないか、って。」

うわーっ!
ほんとやなー。
そうなったら素敵やなぁ〜

遠足が終わって一緒に過ごしたお友達と…
「もしかして私たち、ものすごいことをやってるんじゃない?」って
冗談まじりに話したことがある。

けど、
もし、この一連の流れから
なんだかわからないけど
ふとした気づきとともに
私たちの中に沁み込んでくるものが
あったとしたら?

発端は梅ちゃんの妄想説法だけど…
実は

それを誰かが話すことも
それを聞いて感じること自体も
生きたお経だとしたら…?

そしてこの拙い文章がお経となりさらに
お不動さんに力を吹き込ませていただくことになったとしたら…

やっぱりすごくない?
やっぱり身近じゃない?

信じる心って。
祈る心って。
素敵だなぁと思うのです。

バーチャルお寺あり
にこやかなご住職もいて
生きたお経を唱える。

こぉーんな遠足、また参加してくださいね。

今日もありがとう。