身近な人が認知症に



日本に帰っていろいろビックリしたことがあったが、今回残念ながらあまり良い驚きでないものがあった。



実はコロナ禍の間に、遠縁の叔母が軽度の認知症と告知されていた。

2年前まではなんともなかったのに。

慌てて会いに行ったのだが、認知症について私は全然知らなかったのだと思い知らされた。



認知症とは物忘れが激しくなる病気なのだと思っていたが、それだけではないのだと初めて知った。

身体の力もなくなり、声も小さく、歩く力も弱々しい。

体力がガクンと落ちたようなのが、見ていて痛々しかった。



二日間、叔母の家に泊まり様子を見たのだが、叔父が仕事に出てしまうと、物音一つしない家に、叔母は一人になる。

息子家族も、娘家族も皆忙しく、来ない。

話しかけても、途中、途中で「わからない」と言う。

ご飯や掃除洗濯はなんとかできているが、「わからない」という言葉が多い。

どうしたらいいのか途方に暮れた。



二人でコメダへ





「コメダへ行こうか」と叔母を誘ってみた。

外に出て、おしゃべりしながら歩いて、楽しくモーニングを食べたら少しはいいのでは。


コメダは大好きな店である。

叔母も着替えをして出て、嬉しそうである。

二人で歩いてコメダへ。


私が複雑なモーニングの組み合わせや追加メニューを注文していると、叔母が「本当に理路整然とスッキリ言えるのねえ。羨ましいわ」と言った。

そんなことはわかってくれるのね。

そしてさっき「わからない」と言ったことを、30分後に「あ、思い出した」と言い出したりする。

話をすればするだけ、以前の叔母に戻って来たようだった。

ああ、なるほど、と私は少し核心に触れた気がした。




​日本にはなぜ認知症が多いのか



インドにも認知症はあるというが、私は一人も見たことがない。

私は道のチャイ屋で毎朝お茶する人間なので、ご近所の老人は何十人も知っている。

なのに一人も認知症の高齢者はいないし、家に閉じこもっている老人さえいない。

聞くと非常に少ない割合で、稀に認知症がいるという程度のようだ。


なぜインドには認知症の高齢者が少なく、日本には多いのか。

実際、日本には知り合いに認知症患者が数人いる。

やはり割合は日本の方が多い。

なぜなのか、それは容易に想像できる。



日本人はもともとの性格が、インド人に比べたら情緒的で、理論的ではない。


その上で高齢になるにつれ、

喋らない。喋る機会がない。コミュニケーションがインドより圧倒的に少ない。

圧倒的に家族との関わりが少ない。

喋らないせいか理屈に弱い。

仕事や日常の雑事が少ない。

人に迷惑をかけられることが少ない。

家族の世話をすることが少ない。

暇ですることがない。

ある程度の必要なストレスが少ない。

新鮮な野菜や果物、ナッツを食べることが少ない。

添加物漬けの食品やインスタント食品を日常的に食べている。

水をあまり飲まない。

すぐ薬を飲む。大量に飲む。

日常生活に肉体的な仕事や負担も少ない。



上記を全て反対にしたのが、インド人の生活なのである。


要するにインドの生活はもっと原始的で、人とのコミュニケーションにあふれた毎日であり、家族がワイワイいて世話をする必要があり、親戚、ご近所付き合いが盛んなのだ。


水や食品にも原因があるが、それは二次的なものだと思う。

ご参考までに述べるが、私は毎日ウコンを耳かき一杯摂って癌と認知症予防としている。

ウコンは脳や身体のサビを取り抗酸化作用、抗菌作用があるからだ。



しかしそれよりも何よりも、生活にコミュニケーションがあることが一番大事なのだ。

インドには90歳以上の老人がゴロゴロいるが、毎日朝から晩までご近所と庭やベランダでお茶を飲みながら喋っている。一日喋るなと言ったら死んでしまうかもしれないと思うほど、喋るというのが日課なのだ。


コミュニケーションはおしゃべりだけではない。

インド人はたとえ90歳であろうが、ほとんどの人がFacebookやインスタを使いこなし、遠くの家族親戚とビデオコールなどしょっちゅうしている。

とにかくITツールにめちゃ強いのは不思議だ。人種の違いなのか。



携帯アプリなんてくだらないとか使い方がわからないと言って使わない高齢者が日本にはいるが、それは脳のトレーニングを自ら放棄するようなものだ。



健康に生きられなければ、人生の楽しみや意義は失われる。

健康に生きるには、人と人との繋がりが不可欠なのだ。


日本人は昔のご近所同士の義理人情や、おせっかいをしていた時代に戻って、周りの人の世話をし、毎日死ぬほどおしゃべりすべきなのである。




飼っているウサギはこれまた無口でうんともすんとも言わない 真顔