1995年1月17日午前5時46分


淡路島北端を震源とするM7.3の直下型大地震が発生しました。


死者6434名。行方不明者3名。負傷者43792名。


を出す大惨事でした。



当時私は病気療養の名目で辞職し、


いくつかのアルバイトを掛け持ちしている毎日でした。


その日目が覚めたのは確か5時半頃だったと記憶しています。


何気に点けたテレビからニュース速報が流れ


阪神で大きな地震があったのを知りましたが、


その数分後に映像で送られてきた街の様子には


我が目を疑う程の惨状でした・・・


崩れ落ちた高速道路。押しつぶされた駅舎。


まるで根元から折れたように倒れたビル


火災はまるで炎が獲物に襲い掛かる獣のようでした。


私は震える指である人の電話番号を押していました。


同期入社で、いつの間にか心から信頼し合える仲になり


ご主人の転勤に伴い住んだ大阪から


このほんの1月前に神戸の東灘区に越した友人の番号。


「Aちゃん・・無事でいて」


地震発生から30分後既に電話は不通となっていました。


こんな時どうしてかよぎる最悪の事態。


じっとしている事などできず「もしかして実家に連絡があったかも」


意を決して彼女に実家に電話をかけましたが、


なんの連絡もないとの事でした。


その日は輸入家具と雑貨の店のバイトでしたが


店頭のワゴンの整理をする度に、


通行人が話題にする地震の被害が時をおって


大きくなっていくのに気が気ではありませんでした。


結局彼女と連絡が取れたのは翌日でした。


越したばかりのマンションは歪んでドアや窓の開閉が


困難になった程度だったそうですがライフラインが切断されながらも、


避難所よりはとそこで暮らしているとの事でしたが、


近所では倒壊したマンションも少なくなかった様です。


通話にに時間制限があり短く近況を聞くのみでしたが、


無事を知る事が出来、思わず号泣してしまいました・・・


しかしその後も連絡もままならず、


何か送ってあげたくてもそれさえ制限があって、


とうとう何もしてあげられませんでした・・・


彼女は現在もご主人と2人仲睦まじく暮らしていますが、


あの惨事のストレスからか婦人科系の病気を患い


夢であったお母さんになることができませんでした。


同じ女性として彼女の心の傷の深さは痛いほど伝わってきます。


それでも明るく病気に立ち向かい、


命のあることに感謝し暮らしてる彼女の強さは美しくもあります。


多くの犠牲が有った中、彼女がかすり傷ひとつもなく


無事であったことを私も心から感謝し嬉しく思っています。


16年目の今日、彼女は何を思っているのでしょうか・・・


ただはっきりと言えるのは今日も笑顔だという事でしょうか。




あの震災で亡くなられた


多くの方のご冥福をお祈りします・・・