Fumythos

Fumythos

それは優しく、激しい潮流で。
踊れ命のパ・ドゥ・ドゥ。

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「好きなのに離れなければならなかったから、思い出すのが辛くて嫌だ」という現象は、誰にでもどんなことにでも、よくある。

 
わたしにとって、バレエがずっと、ここ数年間そうだった。でも今は、バレエから離れちゃった強い後悔で自分を責めるのではなく、純粋な気持で、バレエをやっていた過去を愛おしく思うことが出来る。
 
そしてたまに、バレエまたやりたいっていう気持になれる。
 
耳で憶えた言語が、なかなか忘れづらいように、踊って憶えたことって、躯がずっと忘れない。そして何より、コンクールで演じた役に(わたしは、その役を演じる=ジャンクションするとかよく言う)、凄く思い入れがある。
 
特にそう思う役は、なんと言っても『ドン・キホーテ』のドリアード。
 
最近、弟の彼女に、「ハリーポッターのルーナに雰囲気が似てる」って言われた時に、あぁ、なるほどなって思った。恩師にも、あなたは大人っぽくて優雅だからだと、わざわざコッペリアのヒロイン・スワニルダで戦うのをやめさせられて、演じることになった、大切な役。わかる人はわかってくれる、わたしの魔力。不思議で、掴みどころのない、ね。『白鳥の湖』のオディールのような激しさはなく、かといって『コッペリア』のスワニルダや『ジゼル』のジゼルのように恋に生きる、人間の女の子らしさが前面に出てるわけではない。森にすむ、木の妖精の女王様、だなんて、儚さと気高さを兼ね備えたステータスも、好きだわ。スロウテンポで、アラベスクとかアチュチュードとか、バレエならではの、手足を美しく魅せる技もいくつかあって、見せ場はオディールのフェッテではなく、敢えてイタリアン・フェッテなのも、足を高くあげる、グランバットマンの要領を生かした優雅な演出だと思う。技、音楽、キャラクター設定、自分自身の想ひ出、全て好きな役です。
お気に入りの中国&台湾の映画。
語学の勉強になるのは勿論、大好きな中華圏の文化も知れるし、人と人との深い関わりとか友情、愛情が強く描かれていて、どれも感動するものばかりです!
全部書くのは大変だけど、いくつか感想を書き残しておきたく思います。
 
【台北に舞う雪】
歌手なのに声が出ない、これでは大切な人に見捨てられるから疾走してしまう…この切羽詰まった愛情深い、ヒロイン(メイ)の設定が、まず好きだな。共感できること間違いないって思った。
疾走先(?)で出逢ったモウに助けられ、容態は回復していき、またモウからは好意を寄せられるも、夢のためそして大切な人のために、元の場所に戻らなければならない。モウのことは勿論大切だけど、気持には応えられないから優しくしないで欲しい。心優しいモウの恋が報われないのも見ていて辛いけれど、そんなメイの葛藤もなんだかすごくわかるような気がして…、恋って切ないし難しいものだなあって改めて思いました。でも、この映画のキャッチフレーズ「誰かがあなたに恋してる」ってこういうことなのかもな。
 
【台北の朝、僕は恋をする】
恋愛相関図の設定としては、台北雪に凄く似てます。ただ、台北雪の方が圧倒的に切なくて苦い恋の味を感じることが出来る、台北朝はキュンとする設定にはなっていません。おそらく書店員のヒロイン(スージー)は、常連の主人公(カイ)に好意を寄せているのですが、カイはフランスに行った恋人のことで頭がいっぱいなので、スージーの気持が報われたり、カイが心揺れたりという展開は絶対なさそうだなってはなからわかりました。台北雪では、メイはモウの好意を受け止め、名残惜しく離れるた後も彼のことを気にかけているように見えましたが、台北朝はカイはスージーの好意に気付いてすらいないように見えるし、気付いてたとしても「あ~良いやつだったな~」くらいしか思ってないでしょうね。
・・・こういうのって男女の違いだったりするのかなあ、こうなった場合の。
まあ、こんな感じで恋愛の要素に関しては、切ないとか泣けるとかは全然ないんですが、カイの無謀な計画にスージーやお友達が巻き込まれて行って少しハラハラするのは見ていて楽しかったです。
 
【山楂树之恋(サンザシの木の下で)】
最近観た中では一番かなあ。苦しい中育まれた、秘密の恋。25歳まで恋愛が出来ないジンチウを「一生待つ」ジェンシンが、それまでに死んでしまう、運命が残酷過ぎました。ジンチウって家庭環境からか、自分で言ってたようにいつも凄く憂鬱そうなんですが、ジェンシンといる時はそれを感じさせないくらい凄くキラキラした笑顔で…愛の力だなぁ!って思いました。「君が25歳になるまで待てなかった、一年たりとも待てなかった、でも君のことを一生待つことが出来る」…最後のジェンシンの、彼女に向けた心の声と、ジンチウが駆け付けた時の、最期もう意識はなくなって動かなくなってしまったジェンシンの涙にはもらい泣きをしてしまいました。もしかしたら、最期に「赤い服」の姿の彼女を見れたのが、彼女が来てくれたのが、嬉しくて涙を流したのかもしれないけど、それ以上に、もう一緒に居られない悲しさが伝わる、つめたい涙ような気がして…>< でもジェンシンのやさしさを見ていると心が洗われたような気持になります・・・
サンザシの赤い実、ジンチウがジェンシンの為に着た赤い服…、くすんだ画面の中で映える「赤」が、まるでパートカラーの演出みたいに印象に残ります。
 
【變臉】
グーワーめっっっちゃ可愛いー!!可愛すぎるー!!中国の文化に興味ある方は絶対楽しめる映画です!わたしは、天津の古文化街に初めて行った際「ずっと幼いころに想像してた、いつか行きたいと思っていた『中国』を見れた!」って気持になったんですが、この映画観た時もそんな気持になって、改めて中国の文化好きだな~って実感しました。主人公のグーワーは「7回売られ、女の子だとわかると要らないって言われてきた」って設定が可哀想で、男の子のふりをさせられて買い取ったおじいさんからも性別がバレるとやはり邪険にされたりしてたんですが(特におじいさんがこの子に伝えたかった芸能は、女の子ではダメだった)…、それでも自分を買い取ってくれたからとひたむきにおじいさんに尽くす様が健気で可愛くて…、胸がいっぱいになります。グーワー終盤で死んでしまったように見えるんですが><…、なんとか一命を取り止め、最後はおじいさんはグーワーを本当の孫として迎えてくれて良かった…めでたしめでたし!
 
【和你在一起(北京バイオリン)】
親子愛の話って大体子どもの方にばかり感情移入しがちだけど、これは凄くお父さんの方の気持もわかるし、お父さんの子供への気持が報われて幸せになってほしいなあって思いながら観れました。主人公が大成するために色んな人が支えます、その気持ちに主人公が不器用ながら応えているような描写がとても心温まります。父親とはけっこう最後まで喧嘩ばっかしてたけど最後は気持が分かり合えて、お父さん、良かったね!って気持になりました。
 
まだまだたくさんあるけど今日はこの辺で、ザイジェン(再见)!
シェヘラザードが出てくる映画で、「子供を飲み込んでしまう神は誰か」って問いがあった。
 
う~ん・・・、その設定があったのは覚えてるんだけど、名前が思い出せない!誰だっけな、そんな惨いことしたのは!
 
大学時代に神話の授業で使ってた事典で、いくつか思い付く名前を引いてみて、やっと思い出した・・・!
 
・・・サトゥルヌス!(クロノスと同一視もされていますが、絵画のタイトルだと「サトゥルヌス」とされている方が多い気がします)
サトゥルヌスは自身の姉である大地の女神・レアと結婚し、子供を産むのですが、両親(父:天空神ウラノス、母:大地の女神ガイア)から「自分の子によって支配権を奪われる」と予言されたため、子供を次々と飲み込んでしまったのです。しかし、最後に生まれたゼウスだけは、レアの機転で飲み込まれずに成長することが出来、飲み込まれた兄弟たちを助けます。その後、サトゥルヌスとゼウスは対立するのですが、敗れ、タルタロスに幽閉されるのでした。
 
飲み込む様子が描かれてる、↓の絵はフランシスコ・デ・ゴヤによる『我が子を食らうサトゥルヌス』です。
この作品は「黒い絵(ゴヤが自身の住居の部屋の壁に描いた一連の絵画の総称、黒をモチーフにした暗い絵が多いため、そう呼ばれている)」の一点。

フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』 1819-1823年 プラド美術館

ラ・ロシュフコーの箴言に「人は理性によって望むものは決して熱烈には望んでいない」というのがある。確かに「理性によって望む」とうのは、(本当はそうしたくなくても)何らかの望まなければならない理由があって望む、好きとか嫌いとかじゃなくて必要とする状態なんじゃないかなって思う。

 

それはそうと、わたしにはそういう物事ってあまりなくて、好きなものは本当に熱烈に好き、望んでいる、求めているんだけど、「好き」のなり方に違いがある。

 

みんなが知っているようにわたしは中文が好き。音が好き。簡体字が好き。物心ついた時から。今はたまたま仕事で必要になっているから余計頑張れるのかも知れないけど、中文が一ミクロンも必要ない仕事になったとしても、中国語を話す・使う機会が全くない南極に住むことになっても、わたしは中文の勉強やめないと思う、好きだから。こういう「好き」の状態、わたしは「先天的に好き」と表現したりする。好きになったきっかけはない、気づいたら好きだった。

 

でも、宇宙や宇宙に関することが好き(空の彼方でつめたく孤独に輝く星団も、木星に到着するのは理論的に不可能だっていう絶望も、大気圏突き抜けるスペースシャトルも)、宇宙飛行士が好き、心底かっこいいと思う、というのは、もしかしたら中国語に対するそれとは違っていて、12歳の時初めて好きになった男の子の将来の夢が宇宙飛行士だったのと関係があるんじゃないかなって思う。

 

わたしは完全に仕事や学問は文系で、習い事はピアノにバレエと芸術系で、宇宙は専門外、興味の対象外だと思うんだよね、本来。でもそれをこんなに強く好き、「星が綺麗、月がロマンティック」って思うだけならまだしも、人類の生存を無理にする木星の重力のこととか、海王星の天気とか、例えば宇宙飛行士の恋人が冥王星に出張に行った場合、次に帰還して逢えるまでに何年かかるか計算しちゃう(スペースシャトルで行くなら約102年、だから2倍で204年だったかな、確か。)とか、科学的なことまで掘り下げちゃうのは、やっぱりそこまで好きにさせてくれる、得意分野や興味の対象外であっても興味を持たせてくれた「初恋」というきっかけがあったからなんじゃないかな。

 

今、わたしは25歳になって、勿論その男の子のことはもう好きじゃないし、宇宙に関する学問や仕事はしてないけど、SF映画を観るのは大好きだし(特にブルースーツの左肩に日の丸付けた日本人宇宙飛行士が出るとテンション上がる。笑)、実際にJAXAで活躍している日本人の宇宙飛行士の方にすごく興味があって、講演会にも行ったりしてる。それでとても楽しい気持、ロマンティックな気持になれる。こういう趣味や「好き」があって、すごくよかったなって思う。

 

「好きになる理由なんてない!」「好きだから好き!」「先天的に好き!」「素敵なきっかけが「好き」に繋がった!」「好きな人が好きなものはわたしも好き!」どちらも素敵。どんな形であれ、心底好きだなって思える物事に出会えるのって幸せなことだし、人生が変わったり夢を持つきっかけになったりするかも知れない。特に後者の「好き」は、人との出逢いでもたらされることもあるから、色んな人との出逢いを大切にしたり話したりすることって大事なんだな、きっと。こういうことが、また人生の中で起きるといいなって思いますね。

前12世紀頃、「海の民」が来襲しヒッタイトを滅亡、エジプトを弱体化させると、セム系の諸民族が興隆した。
その中で、ヘブライ人と呼ばれた民族はかつてエジプトの奴隷であったが前11世紀末には王国を建設した。ソロモン王の死後、その王国は南北に分裂したが北のイスラエル王国は前722年にアッシリア帝国に、南のユダ帝国は前586年に新バビロニア王国によって滅ぼされた。

このバビロニアについては、旧約聖書にも記載されており、その一場面を描いた芸術家にレンブラントがいる。

 

レンブラント『ベルシャザールの饗宴』1630年

 

絵画の説明

バビロニアの王ベルシャザールがエルサレムのソロモンの宮殿から盗んだ金銀の酒器で異教の神々と乾杯をした。すると不思議な指が空中に現れ、壁には「メネ メネ テケル ウパル シン」という不吉な文字が現れた。これはバビロニアの没落と王の死をほのめかす呪文だった・・・。

その夜、ベルシャザールは殺された。

 

ヘレニズム文化

 

アレクサンドリアの建設により、ギリシアの都ポリスは解体し、同時に新しい文化が誕生した。それは従来のギリシアの文化にオリエントの文化が加わったものであり、ヘレニズムと呼ばれる。特に自然科学が高度に発展したのはこの時代の特徴である。代表的な学者に、平面幾何学を大成したエウクレイデス、地球の周の長さを形成したエラストテネス、地動説を唱えたアリスタルコス、浮体の原理を発見したアルキメデスがいる。ポリス時代に生まれたオリュンポス12神のような神話の伝承はあまり顕著ではなくなっている。また、コイネーと呼ばれる新しい言語が発生し、これは後のローマ帝国時代にまで使用され、『新約聖書』もこれによって書かれている。

古代ギリシア暗黒時代

~神話文化誕生に至るまで~

 

前8世紀頃の古代ギリシアに独自の都市国家・ポリスが生まれた頃、哲学・演劇・歴史・文学と、市民を担い手とする多方面にわたる文化が栄えはじめた。すべての領域において自由や優雅を良しとするポリスの気風が、人々の想像力を巧みに柔軟にした。想像力のそういった性質は、特に空想・考察を駆使して意味をなす神話という学問に強く生きたと言えるだろう。ホメロス作の叙事詩『イリアス』では、俊足で無敵の英雄・アキレウスが親友の敵を討つためにトロイア戦争に参加するも、唯一の急所であったアキレス腱を狙われ無念の死を遂げてしまうという悲劇や、後にアキレウスの意志を託されたオデュッセウスの『オデュッセイア』が危険を乗り越えながら故国に帰還する冒険談は、ギリシア人共通の祖先の物語とされ、ギリシア人最大の民族文学となった。またヨーロッパ諸地域でも英雄と神々が活躍する最古の文学として語り継がれている。こうした新しい文化が発展したのは、エーゲ文明消失からポリス誕生までの約400年間にわたる「暗黒時代」がひとつのきっかけであると考えられる。暗黒時代以前までペロポネソス半島(ギリシア本土の南端部)を中心に栄えていたミケーネ文明だが、紀元前1200年頃に始まった「海の民」の侵攻と北方からのドーリア人の侵攻により、壊滅的な被害を受けて幕を閉じることになった。戦乱によって社会の秩序が乱れたことにより、道徳や文化が廃れ悪事や不安がはびこるのがこの時代の特徴である。またこの期間には、ギリシア本土やクレタ島で公用語として使われていた線文字Bによる文字伝承の他、これまで栄えてきた宮殿やあざやかな彩色壁画の伝承失われ、家々は粗末な集落となった。このような世界の中で人々は無気力と化し、人口は激減、経済は崩壊していった。言わば、人間活動の低下である。しかし、暗黒時代以後の真新しい文化の芽吹きはこうした喪失があってこそのものではないかという見方も出来る。文字が失われた世界に新しい言語を求め、古典ギリシア語が成立し人々は伝承することを好んだ。無の世界では人々は空想を働かせ、豊かな想像力が多彩な神話の世界を生み出したという見方も出来る。

19世紀の風刺小説の代表に、モーパッサンの『脂肪の塊』がある。負け戦によって強いられる人々の厳しい現実の様子を、皮肉を込めた表現で事細かに描いていたり(徴収兵の特徴に「平和の愛好者で、公せきや年金でひっそりと暮らしていた¹」、)、娼婦であるブール・ド・シェイフに対する人物の言動の中に人間のエゴイズムや偏見の心が顕著に表れている。特に後者の特徴は、ブール・ド・シェイフの良心が最後まで報われていない点で一目瞭然である。彼女が本作で初めて登場するのはブルジョワたちと乗り合わせた馬車の中だが、彼女の職業が娼婦だと知った途端、彼女を蔑み始め、きつくあたる者がいる。それにも関わらず彼女は、極めて気丈な態度を示し続け、空腹の乗客たちにも自身が持参した食べ物をわけるという心配りを見せるが、後にその良心も踏みにじられることになった。彼女は自身への扱いに耐え切れず、物語の終盤で泣き出してしまうが、そんな彼女に対してまたしても冷たい言葉を浴びせる者もいるし、彼女の泣く声に俗歌を重ねるという描写は大変皮肉なものであり、彼女が蔑みの対象であることをはっきりと表している。物語全体を通して勝者に対して敗者が、ブルジョア階級に対して娼婦が、肩身を狭くして生きる様子はまさに「厭世主義」の特徴を描いたといえる(566字)。

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 ¹水野亮訳 『脂肪の塊』1938年 岩波文庫 p.5

 

これも仏文学の授業で書いたレポートです。

イエスかノーどちらでもないことがあるように、物語にはハッピーエンドでもバッドエンドでもどっちでもないことだってある。

ブールドシェイフは幸せだとか最悪だとかそんな感情を持って発信できる権利を使わせてもらえる以前に、一人の人として扱われていない。

娼婦がヒロインの話ってどうも退廃、鬱ゲーな要素多いよね。

 アンデルセン童話『人魚姫』の登場人物に関する考察です。人魚は自身が海辺で助けた王子様に恋をしますが、彼は、自分を助けたのは他の女性だと思いその女性を愛する。失恋した人魚姫は、泡になって溶けてしまいます。

 人魚姫は自分の足で歩いて王子に近付きたいあまり、人魚の象徴であるしっぽを捨て、海の底での平和な暮らしを捨て、声を捨て、自身の恋心を捨て、最後には命を捨てます。多くの読者にとって、この様は「自分の命を捨てても王子様を愛しぬいた」と涙をさそう悲劇のヒロインの要素としての印象が特に強いかと思います。

 しかし、この人魚の恋は、「一途さ」や「純粋さ」とは対をなす、見方もされることがあるのです。占術に関する女性誌などでは、「好ましくない恋愛をする女性」の象徴となっている場合があり、神話・ファンタジーにおいて皮肉な見方をされている女神と類似の性質もうかがえます。

 

王子に会うために人魚をやめる

→「人魚」とは「ペガサス」「妖精」などのようなファンタジー上の架空生物です。目先の恋の為に優位な要素を自ら捨てています。大切なものを守るためにやむを得ず、とかではなく、自分の欲を満たすために魔的要素を自ら殺す行為・・・。これはファンタジーにおいて大変珍しい現象です。

 

足と引き換えに失うのは声

→おねえさん人魚(のちに出てきます)が類似の状況で失うのは長い髪。これとはわけが違います。声をなくすということは、自分にとっても他人にとってもどんな不便なことか。そして取り返しがつかない。それをあっさりと受け入れるのは、自身を大切にしておらず、今後の現実のことを全く考えていないからだと思います。

 

片思いの相手の為に自分の命を捨てる

→占術で「好ましくない恋をする女」の典型とされてしまう主な理由がこれです。騙されても何されても嫌いになれない、見返りを求めないという良くない傾向にも似ています。また、海の世界の家族たちの気持ちを全く考えていない行為です。特におねえさん人魚たちの気持ちや労力は完全に無視ですよね。

 

おねえさん人魚との意識の違い

→おねえさん人魚は妹の命を救うためにわざわざ髪を売り、王子を殺すナイフを手に入れました。妹が人魚に戻ってまた一緒に生活してほしいという思いからです。彼女たちは「王子を殺すのはやむを得ない、また人魚として生活するのなら」という人魚としての強い誇り、そして妹のためにここまでしてくれる家族思いな面があります。ヒロイン人魚自身はどちらもほとんどなく、叶いもしない恋のことで頭がいっぱいです。

 

タイトル「迷いの剣」は人魚が剣を持ちながら王子殺害を躊躇する様を表したのと、おねえさん人魚はベアトリクスという名だとされることがありFFⅨのベアトリクス登場シーンで流れる音楽のタイトルが由来です。

 ラ・ロシュフコーの『箴言集』では、人が持つ「自己愛」の性質の強さがあばかれている。まず「自己愛」の定義に、「己れ自身を愛し、あらゆるものを己れのために愛する愛¹」「人生のあらゆる状態、状況の中にいる²」とある。例えば自身の状況が不運や逆境にあってもそれを受け入れられる場合は、そうすることで自身には何らかの得があるのだと物事を都合の良いように解釈する「自己愛」、受け入れないことで陥るさらなる不幸から自身を守ろうとする「自己愛」が作用しているからだといえる。つまり、「自己愛」は自身が出来るだけ不幸を感じずに、気持ちよく生きるために必要不可欠な要素である。それから「自分の意見をこきおろされるよりも趣味をこきおろされる方がいちだんと苛立たしく我慢できない³」という箴言にも「自己愛」による心理的作用が考察されているといえる。「趣味」とは、自分の快楽の為に好む対象であり、それは自身の状況・状態によって変化する性質を持つという点で、「自己愛」から発生する感情作用であるからだ。そのため、それをこきおろされるというのは自身の自己愛の一部を否定されることになるのだ。これほどまでに「自己愛」によって人生観や感情を左右されることになるのは、いかなる人間にとっても「自己愛」が「あらゆる阿諛追従の最もたるもの⁴」であるからだといえる(563字)。

----------                                    ¹²³⁴『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.147¹、p.150²、p.14³、p.11⁴
 
※2016年度のフランス文学史の授業で書いたレポートです。ロシュフコー様は、本当に「ごもっともだ!」と思えるような自己愛の定義をあげてくれていますね。