今日は良い天気ですね~
空気も綺麗で気持ちが良い1日でした。
(昨日はpm2.5がひどかった・・・;)
もうすぐ桜が咲く季節。
弁当をもって花見ができるのが楽しみです!
そんなことを思いながら、なぜだか分からないんですが、ふと
「本願寺ってなぜ東と西で分かれているんだろう?」と思ったわけで・・・
今日の記事です。 (どんだけ・・・)
京都にある「西本願寺」と「東本願寺」っていうお寺ご存じですか?
京都駅すぐのところにあるんですけど、
(西本願寺)
(東本願寺)
似てますね^^;
この両方のお寺(本願寺)、なぜ!?西と東に分かれているんでしょう?
実は、その謎を解く鍵が戦国時代にあります。
僕らがよく知る戦国時代のスーパー大名、信長、秀吉、家康。
この3人に答があって、
まず、本願寺が1つだったころ、信長は本願寺を攻めました。
世に言う石山合戦(石山本願寺 vs 信長)!
その時に、本願寺のナンバーワン、顕如(けんにょ)お父さんが、
「そうだ!信長の言うとおり、寺を開放しよう」
と言って解放の動きにすすみます。
しかし、それを嫌った顕如お父さんの長男君(教如(きょうにょ))。
「お父さん、だめですよ!ここは籠城です」
(籠城 = 城に立てこもり戦うこと)
そんなやりとりがあるんですが、結局お寺を信長に開放し、顕如お父さん達は追放されます。
しかし、信長の死後、秀吉から顕如お父さんに、
「顕如さ~、本願寺を京都に建てり~よ。俺が許すけんさ~」
と言われ、顕如が建てたお寺が今の「西本願寺」。
それから、顕如お父さんも年をとり亡くなった後、その顕如お父さんの長男君(教如)が後を継ぐわけです。
しかし、信長から石山本願寺開放を求められたときにも、「籠城をしたい」と拒んだ長男君、
秀吉から嫌われています。
秀吉は、「教如、お前はお父さんの後を継いだらいかん!隠居せんか!この西本願寺は、お前(教如)の弟に継がせる」
そう言われると、教如は天下の秀吉に逆らえません。
それから、「くそ~~」とおもった教如お兄ちゃん、ぜったい諦めませんでした。
「秀吉が死んだ後、ぜったい何とかしてやる!」と
それから秀吉が死んだ後、家康にお願いするわけです。
「僕も京都に寺を建てていいですか~」と。
すると家康はOK!
それで京都に建てられた本願寺が、今ある東本願寺になりました。
このように西本願寺と東本願寺、顕如お父さんの頃から色々あって、そして兄弟の対立があって今の形になったそうです。
すいません、話が長くて・・・(;-_-)
ところどころ、分かりやすくするため、若干話を変えて話しています。ご了承ください;
でも、大まかな流れはこんな感じです♪
って、こんなに適当でいいのだろうか・・・(;-_-) 少々不安・・・
最後まで読んで頂きありがとうございます。
日本の良き文化がもっともっと広がりますように。
今日も最後まで楽しみましょう♪
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