ジョン・ソンイル評論家の言葉の中で
今日、時々ある観客はもう批評家たちの評論は読まないと言う
ところで、よく知られてる秘密ではあるが、同じく、批評家たちは観客の考えに興味を持っていない
公平な取引
そういう意味で私たちはお互いから何かを学んだ
ただ、私がしらず過ぎ去った映画を私の仲間の誰かがその映画に止まっているときに、そこについて急に考えるようになる。
私が好きな映画を彼が嫌いだったり、彼女が好きな映画を私が嫌いだったり、するのは少しも問題にはならない。重要なことはそこから私は何を見てないのかということである。映画は結局見るという問題なのだ。
イメージの活動、その活動の中の世界、世界という記号、戯曲的記号、悲劇的な症候、そのものの力、二人の偉大な名前、わたしたち全員が同じく学べようとしたアンドレ・バジャンは映画が世界の一部ではなく、世界の可能性ということをみせてくれた。映画という世界のひとつの形式。マニ・ファバはその可能性の活動の形式を探求した。私は批評家たちが創造の反対側にいるということを信じない。映画の二つの創造の過程。監督たちがその可能性の形式を作るのであれば、批評家たちはその形式の概念を創造するのだ。ゼームス・エージの戦闘的批評。ポリン・ケールの日常。アンテュル・サリスの目録、そしてあたらしい名前たち、批評はしつこく映画をミメシスの歴史で還元させようとする計画と戦ってきた。そして、ただ映画のために概念を作ってまた直してきた。概念の倉庫、私にきた道具たち。プレゼントでいっぱいであるわたしのたんす、私たちは概念の友達だ。その中で概念の情を味わいながら、意見を話しあったりもする。笑いと涙、顔の存在論、喜びと悲しみ、感覚の線たち、クロズアップの点。移動するカメラの曲線、あるいわ直線、モンタージュの編曲点、材料の方法論、私は時々道に迷ってしまう。それをだれに聞けばいいのだろうか。まったく違う道、分かれた二つの道、ずっと歩いてから戻った道。どんな矢印もない空っぽの芝、つかむことのないところ、もっともっと学ばなくてはいけない。