アメリカ人「広島への原爆投下、君達の国ではどう教わった?」【海外反応】トルーマンに「原爆投下」について聞いた戦争報道カメラマンの話

 

本日、86日午前815分広島へ原爆投下

原爆でも倒れない鳥居は、何を意味しているのだろうか?

1 FrontPageのAnonymousさん  1289 points
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「広島への原爆投下について、君達の国ではどう教わった?」スレより。


広島への原爆投下は、この教科書では20世紀で最も大きな影響を与えた出来事としている。
僕(アメリカ人)が高校生の時、どうして原爆投下の決断をしたか等の詳細は無く、原爆によって戦争が終わったとしか教わらなかった(今の教科書では違うだろうけど)気がするんだ。

広島への原爆投下から70年が経とうとしてる。(※この投稿がされたのは8月5日です。)
君達の国ではこの事についてどう教わった?
僕はワシントン・ポスト紙の記者で、世界の国々ではどのようにしてこの歴史が伝えられているのかを記事にしようと思ってるんだ。


2 FrontPageのAnonymousさん  752 points

カナダ人だけど、今年大学を卒業する最後の学期で第二次世界大戦についての授業を取ったよ。

何人かの生徒は原爆投下への倫理観と原爆投下による結果を切り離して考えることが難しく感じていたようだけど、教授は上手く解説してくれたと思う。

日本は戦争に既に負けている状態だったけど、降伏を拒んでいた。日本の軍隊も降伏を拒んでいたし、島国のせいで他国へ逃げる事も出来なかった。そしてソ連対日参戦が満州で始まり、侵略されていた地域を驚くべき早さで制圧した。焼夷弾が線路を破壞したおかげで食料を運搬する事を阻止したんだ。

最初の原爆が投下された後、日本軍は戦いを止めようとはしていなかった。日本の科学者達は原子力爆弾を開発中で、アメリカ人は日本人に劣っていると考えていたからね。
そして次の原爆が投下され、日本軍の上層部は自分達が勝てないと理解したんだ。
日本が降伏しなかったのはアメリカ兵が日本兵より劣っていて、ただ強い武器を持っているだけと考えていたから。
原爆が落とされ、無条件降伏をした後に若い将校達は皇居に行き、降伏を宣言した天皇を暴徒から守ろうとしたそうだよ。

日本本土への侵攻での死傷者は大雑把に数えられていて、死者が正確に何人出たのかは誰も分からない。

民間人の死者は原爆より空襲によっての数の方が多く、戦争が冬まで続いていたら飢餓や病気で死者の数は膨大な数になっていたと予想されている。

原爆投下を良い作戦だと考えていた同盟軍の将校は何人かいたけど、アイゼンハワーとマッカーサーは不必要な物だと考えていたそうだ。そして原爆投下についての投下書類を承認したとされるトルーマンは悪とはされていなかったよ。彼がどの都市に投下するかを選んだのではなく、いくつかの委員会が選考し、トルーマンは「OK...やれ」としか言っていない。
確かに彼が一番責任を負う決定をしたけど、彼だけを批判するのは間違いだと教わった。

管理人注 トルーマンは長年付き添っていた戦争報道カメラマンに、一度だけ「原爆投下」について聞かれた。
その戦争カメラマンは原爆投下後すぐに長崎に入り、廃墟の長崎を歩き、
長崎大浦天主堂

破壊された大浦天主堂で、熱で焼けただれたマリア像を見、そこでたったひとりで一夜を過ごした人間だった。
この有名な写真も撮っていて米国で何度も公開している。

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原爆投下後の長崎の焼け野原で、直立不動で唇を血がにじむほどに噛み締め、背中におぶった弟の火葬を待つ少年。
NHK特集「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」


http://kosodate-taxi.jp/blog/2007/07/1945.html


原爆投下直後に、アメリカ軍の報道写真家ジョー・オダネル氏によって撮影された写真です。

以下はジョー・オダネルのコメントです。

佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか?白いマスクの男たちがおもむろに近づき、背中の赤ん坊をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは、少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました…。

 

62年前のあの日、この長崎にこの少年はどんな思いで立っていたのでしょうか・・・。
「戦争とは・・・、平和とは・・・」なんて声高に叫ばなくても、この少年の怒りにも似た悲しい表情に胸を突かれる思いです。

長崎県美術館で7月13日より報道写真家ロバート・キャパの作品展が開催され、その特別出品作としてこの写真が長崎で初公開されます。

私も2人の子ども達を連れて行こうと思っています。
実は、この写真展の広告に掲載されていたジョー・オダネル氏の写真を娘に見せ、コメントを読んであげました。読んでいる私も、途中で胸が一杯になり声にならなかったのですが、普段あまり泣かない娘が声を出して泣き始めた事に驚いてしまいました。
娘が何を感じたか特別な話はしていませんが、きっと裸足で立っている少年に自分を重ね合わせ、背負っている幼子に弟を重ね合わせたのでしょう。 (2007年7月 9日 16:47)

その一夜の思いを伝えた。彼とトルーマン2人だけの浜辺だった。

「閣下は原爆投下についてどう思われますか?」

とたんに穏やかだったトルーマンは顔を真っ赤にしてこう言ったらしい。
「あれを落としたのはルーズベルトだ!!」
 

その戦争カメラマンは戦後も長く撮影を続け、ケネデイのこの写真でも有名な人だ。 

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 ケネディ 演説写真 政府が何ができるかではなく

これを最後に報道カメラマンを辞めたジョー・オダネル氏はその後、長崎に来て、
あの時の少年を探した。だが、見つからなかった・・・


http://www.sweetnet.com/shnikki/2008/09/post-145.html

原爆投下後の長崎の焼け野原で、直立不動で唇を血がにじむほどに噛み締め、背中におぶった弟の火葬を待つ少年。NHK特集「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」で私は初めてこの写真のことを知りました。とても心を揺さぶられる番組でした。

この写真を撮影したのは元アメリカ海兵隊員のジョー・オダネル氏。真珠湾攻撃の後、日本への憎しみから19歳で軍に志願したオダネル氏は、長崎への原爆投下の1ヶ月後に、記録班として長崎のグラウンド・ゼロでの撮影を始めます。軍からは、許可なく人物の撮影をしてはならない、との命が下されていましたが、オダネル氏は、その凄惨な光景に衝撃を受け、親を亡くした子ども達の姿や瓦礫の山となった町の姿を写真におさめ始めます。

そして、それらの写真を秘密裏に母国アメリカに持ち帰りますが、長崎で目にした光景が胸を離れず、悪夢にうなされ続けます。また、何よりも「アメリカはこの行為を正当化できるのか」という思いに、さいなまれ続けます。そしてある日、苦しみから逃れるため全ての写真をトランクに収め封印してしまいます。

その後、オダネル氏は結婚をし一男一女にも恵まれ、アメリカ情報局に勤め大統領の専属カメラマンとして幸せな日々を過ごしますが、ある日、教会で目にした原爆反対を訴えるために作られた、被爆者の写真を貼り付けたキリスト像に出会い、43年の封印を解き、写真を公開する決心をします。

ところが、写真の公開は各地で断られ、出版の依頼をした35社全ての出版社にも断られ、ようやく漕ぎ着けたスミソニアン美術館での展示も直前に退役軍人らの激しい反対に会い中止となります。さらにオダネル氏の家には日増しにいやがらせの電話や手紙が来るようになり、妻までもが彼の元を去って行きます。

それでもオダネル氏はあきらめることなく、「私の投げた一石が、小さな波紋を作りやがて、それが世界へと広がってゆく」との信念で、自らも原爆後遺症に体をさいなまれながらも活動を続けます。

オダネル氏は去年、奇しくも長崎原爆投下と同じ日に亡くなり、現在、彼の遺志は息子Tyge O'Donnell氏へと引き継がれています。・・・ (2008年9月11日 00:57) つづく


3 FrontPageのAnonymousさん  26 points
>>2
>>日本は戦争に既に負けている状態だったけど、降伏を拒んでいた。

日本が降伏を拒んだのは、ソ連と同盟を形成しようとしていたのもあるね。


4 FrontPageのAnonymousさん  133 points

ブラジル人だけど、世界史の授業でこの辺りをやっていた時は悲しく感じたし、論争になってたのを覚えてる。僕達の教師は原爆の恐ろしさと影響を強く伝えようとしていたよ。
 

広島と長崎への原爆投下によって第二次世界大戦が終わり、ここからアメリカがいかに自分達が優れているかを世界に見せようとし始めたと習った。



ソース: http://frontpage.blog.jp/archives/1036232448.html
 


5 FrontPageのAnonymousさん  50 points
>>4
ブラジル人だけど、僕の学校ではアメリカを「必要悪」と呼んでいたよ。

もちろんこれに同意しない人は多くいたけどね。


6 FrontPageのAnonymousさん  28 points
>>4

同じくブラジル人だけど、僕が通っていた学校ではブラジルがあまり関わらないということで第二次世界大戦について深く掘り下げる事は無かったね。それよりブラジルの歴史についてを重視してたよ。


君の言うとおり、原爆は悪いものでこれによってアメリカは世界にアメリカが優れていると見せつけようとしたと教わったかな。
原爆を必要悪と考える人もいるし、許せない破壊兵器と考える人もいるから、教師の考え方次第で授業の内容が変わるんだと思う。


7 FrontPageのAnonymousさん  561 points
僕はアメリカ人だけど、高校の歴史教師をしてるからこれについて投稿してみる。

僕が学生だった頃、2つの原爆が投下され戦争が終わったとしか習わなかった。
でも僕が大学生だった時に取った太平洋戦争についての授業では原爆が注目されたけど「日本が降伏しないから、アメリカは原爆を投下しなければならなかった。この決断によって多くのアメリカ人と日本人が救われた」と習ったよ。

去年アメリカの歴史を2年生に教えた時、違ったアプローチを取ってみたんだ。
犠牲者の数を島ごとに調べて見積もりし、何故原爆が有効だったかについて議論した。
ただ事実を学ぶより意味があったものだと思うよ。


8 FrontPageのAnonymousさん  109 points
>>7
空襲について君の授業では教えた?
僕の知識が正しければ、アメリカは日本に原爆投下する前から空襲を長い間続けていて、空襲の犠牲者数は原爆での犠牲者数より多かったはず。

僕はこの事について教わった事が無かったけど、「Flyboys」という小説を読んで初めてこの事を知ったんだ。
日本への原爆投下はテストのようなもので、ソ連の抑止力にしようとしてたんじゃないかな。


9 FrontPageのAnonymousさん(>>7)  7 points
>>8
バルジの戦いについて教えてる時に、簡潔だけどその話をしたよ。
この事についてアメリカではどれぐらい話されているのかは分からないから、僕がカリフォルニア州で教えてるこの学校の事しか分からない。

僕は原爆がロシアへの抑止力や、戦争を終わらせる為に必要だったとは教えられないかな。


10 FrontPageのAnonymousさん  32 points
>>8

アメリカ人だけど、空襲によっての犠牲者は原爆の犠牲者よりはるかに多いと習ったよ。

でも、原爆の破壊力は凄いという事実のせいで、多くの爆弾についてはあまり語られないね。

僕の祖父は原爆が投下された時沖縄にいて、日本本土への侵攻に備えていたそうなんだ。
祖父は原爆が投下されてすぐ本土侵攻が無くなったと知ったみたいで、ホッとしたと言っていたよ。本土侵攻では多大な被害が予想されていたからね。

もし原爆が投下されていなかったら、僕はここにいなかったかもしれない。


11 FrontPageのAnonymousさん  292 points

ドイツ人だけど、戦争の歴史ではドイツが行った残虐行為についてが重視されてる。

ナチスについての授業を選択して取らなくちゃいけなくて、例えばナチスの青年、なぜ第二次世界大戦が起こったか、集団圧力とファシズムの心理学とかね。

他の残虐行為(インディアンを虐殺、広島への原爆投下など)は全く教わらない、もしくは凄く簡潔に話される程度だよ。

ドイツでは大きな反戦運動が1960年代(特にベトナム戦争時)から続いているんだ。それに関連して、原子力発電についてはかなり議論されているし、多くのフィクションまたはノンフィクションの本では原子力発電が物語の中心になっていることが多い。


12 FrontPageのAnonymousさん  29 points
>>11
ドイツの自己認識という教育は新鮮だね。
「これが起こり、なぜこれが起こったか」を教育する事によって同じ過ちを未来で繰り返さない事にも繋がる。


13 FrontPageのAnonymousさん  29 points
>>11
君の投稿に感謝。ドイツでの歴史教育は興味があったんだ。

そういえばドイツ人はナチス関連の物を見せる、描くことは犯罪と聞いたけど本当?


14 FrontPageのAnonymousさん  66 points
>>13
うん、本当。
それにナチスがやった事(例えばアウシュビッツ収容所でのガス室)を認めないというのも重い犯罪なんだ。
ヒトラーの敬礼をするだけでも数年間刑務所に入れられるよ。

もちろん教育や芸術的目的なら特例で除外されるけどね。


15 FrontPageのAnonymousさん  11 points
僕はニュージーランド出身だけど、僕は原爆によって戦争が良い終わり方をしたと教わったよ。

戦争時のアメリカは良い人と描かれていて、アメリカが正しい、もしくは悪いとは言えないみたい。


16 FrontPageのAnonymousさん  10 points
イタリアでは原爆は戦争を早く終わらせる為のカードだったと教授に教わった。
そしてその威力をソ連に見せるという意味もあった、とね。

原爆投下がどれだけの被害を与えることが出来るか(実験はあくまで実験だから)を実際に計るためだったとも。


17 FrontPageのAnonymousさん  60 points
日本の学校に行ってた人はいる?どのように習うのかな?


18 FrontPageのAnonymousさん  2 points
>>17

小、中学と日本の英語学校に通ってたけど、原爆についてはかなり重要視されてたよ。
日本には道徳という倫理観を学ぶための授業があって、それも英語の教科書で授業をしてた。

日本では2つの原爆が投下された時に黙祷というものを全校集会でやってた。
僕の感想だけど、日本では戦争がいかに怖いもので、戦争によって多くの家族が離ればなれになったと習ったよ。そして原爆投下したアメリカを悪者とは教えず、平和がいかに大事かを教わった。

「はだしのゲン」という広島への原爆投下についての漫画が僕の知る限り全ての学校の図書館に置いてあったのも覚えてる。

スタジオジブリの「火垂るの墓」も全校集会で見せられたね。

 

19 FrontPageのAnonymousさん  191 points
>>17

僕の妻は広島出身で、毎年広島平和記念資料館へ校外学習をしに行ってたらしい。

そこでは人々が原爆投下された時やその後の苦痛を知ることが出来たそうだ。

日本の歴史教育で一番重要視されてるのは、子供にアメリカを悪とは教えず、戦争そのものを悪とすることだと僕は思うかな。