2279日間の拘束生活、30年以上も日中交流に奔走した「友好人士」が見た現実…中国の裏側を目の当たり「それでも交流は私の人生」(読売新聞 2024/01/15)

 「覚えているか。お前とは一度、会ったことがある」

 

 黒く分厚いカーテンに閉ざされた取調室で、男がボソリと話しかけてきた。

 

 日中青年交流協会の理事長だった鈴木英司さん(66)=当時59歳=が2016年7月15日に北京で中国当局に拘束されて4、5日目のことだ

 

 浅黒い肌、ぎょろりとした目、オールバックの髪形。特徴のある男だ。数時間ほど記憶をたぐり、ハッとした。確か6年前、中国・遼寧省での植林事業に「北京からのボランティア」として参加していた

 

 疑問が頭の中で渦巻いた。なぜ植林に男が送り込まれていたのか。自分は、その頃から監視されていたのか

 

 30年以上も日中交流に携わった「友好人士」である鈴木さんの拘束生活は、ここから6年余り、2279日に及ぶことになる。(大阪社会部 南部さやか)

 

◇昼食後に突然「お前が鈴木か?」

 

 ホテル「二十一世紀飯店」は、北京市中心部の日本大使館の向かいにある。この界隈(かいわい)は日本人が多く暮らし、1階の料理店「 蕎麦人(そばじん)弁慶」は手打ち蕎麦が評判だった。

 

 2016年7月15日、日中青年交流協会理事長だった鈴木英司さんは、そこで友人と昼食を済ませ、ひとりタクシーに乗った。シンポジウムの準備に4泊5日で出張し、帰国するところだった。

 

 空港でタクシーを降りた直後のことだ。見知らぬ男に声をかけられた。

 

 「ニーシーリンムーマ(お前が鈴木か)?」

 

 そうだと応えた瞬間、複数の男にワンボックスカーに押し込まれた。目隠しをされて走ること1時間。安ホテルの一室のような場所に連れ込まれ、男らは「北京市国家安全局」と名乗った。安全局はスパイを摘発する国家安全省の下部組織だ

 

 訳も分からぬまま、取り調べが始まった。10日ほどして、日本大使館員が面会に来たが、話を聞いてがくぜんとした。拘束は、中国の法律で「居住監視」と呼ばれる措置で、当面、解放は難しいという期間は最低3か月とも言われ、来月は高校の同窓会だったと思い出した。

 

◇時計もなくカーテン閉めた部屋に7か月

 

 1か月がたち、2か月がたった。部屋にはベッドと机にソファが二つ。監視役2人が交代で24時間ソファに陣取り、鈴木さんの居場所はベッドの上だった。

 

 壁に時計はなく、カーテンは開けられず、電灯を消すことも許されない。時間の感覚は失われ、正気を保とうと、高校の同級生の名を一人ずつ思い返した。

 

 最終的に7か月続いた監視生活の原因は、3年前の旧知の中国外交官との会食だった。北朝鮮の故 金日成(キムイルソン)主席の女婿・ 張成沢チャンソンテク 氏の処刑を話題にしたことが、中朝関係の秘密の情報を探ったとして「 間諜(かんちょう)罪」に問われたのだ。日本の公安調査庁の依頼だろう、とも追及された。

 

 公安調査庁の職員とは面識があったが、依頼を受けたことはない。何より張氏の処刑は日本で報じられ、誰もが知る内容だ。そう反論すると、取調官の筆頭で「老師」を名乗る男は平然と言った。「国営の新華社通信が報じないことを探れば違法なのだ」

 

 頭が変になりそうだった。ただ、一つわかった。これは日中交流に携わって30年以上、自分が目を向けてこなかった中国の現実だ

 

◇魯迅に触れ中3から憧れ…移住し教員に

 

 茨城県桜川市(旧大和村)出身の鈴木さんが中国に憧れたのは中学3年の時だ

 

 「歩く人が多くなれば、それが道になる」

 

 教科書で中国文学の父・魯迅(1881~1936年)の短編小説「故郷」を読んだ。革命を起こし、人民のための国家を建設する。社会主義の理想は輝いていた

 

 高校1年だった1972年9月、日中国交正常化が実現し、田中角栄、周恩来両首相が握手を交わすテレビ映像に胸を躍らせた。大学を卒業し、父親が望んだ公務員や会社員ではなく、社会党系の労働組合に就職。83年に26歳で党青少年局の誘いで訪中団に加わり、日中交流に携わるようになった

 

 そこで知遇を得たのが周首相の下で国交正常化を進めた知日派の重鎮・張香山氏(2009年死去)だ

 

 「民以食為天(民は食をもって天となす)」。中国人は一緒に食事をすることを大切にする。70歳を超えていた張氏は、戦前に日本留学の経験があり、若い鈴木さんをよく食事に誘ってくれた。

 

 中華料理の円卓を囲みながら「戦えば共に滅び、交われば共に栄える」と説き、中国のことわざを引いて「『長江は後ろの波が前の波を押し進める』。これからの交流は青年が前に出てほしい」と、鈴木さんを励ましてくれた。

 

 1997年には張氏の推薦で北京外国語大の教員となり、中国に移り住んで日本の社会や政治を教えた

 

 「改革開放」路線の下、中国社会は急速に発展した。人民服は姿を消し、街には洋服姿があふれ、清時代の趣を残す「 胡同(フートン)」と呼ばれる古い街区は、高層ビルがそびえる市街地になった。その国に自分も寄与しているのだと誇らしかった。

 

 当時、社民党衆院議員だった東京都世田谷区長の保坂展人さん(68)は、鈴木さんとはこの頃からの付き合いだ。「人なつっこくて、記憶力がいい。訪中の時は世話になり、党の中でも『中国なら鈴木』という感じだった」

 

 2003年に日本に戻った鈴木さんは、日中青年交流協会を設立。学生交流や植林事業を手がけた

 

 中国には天安門事件のような人権問題や、靖国参拝、尖閣諸島を巡る日本との 軋轢あつれき もあった。しかし、鈴木さんは日本の友人に指摘されると「中国はまだ発展の途上だ」「立場が違えば歴史認識も違う」と反論した。

 

 「中国は危ないから、ほどほどにな」。父親に言われても、自分は「友好人士」、中国の理解者だと耳を貸さなかった

 

◇審理は2回だけ、懲役6年判決…とにかく生きて帰る

 

 拘置所、刑務所へと場所を移して続いた2279日間の拘束生活は、中国の裏側を見る思いだった。

 

 裁判では、わずか2回の審理で、安全省の筋書き通りに認定され、懲役6年を言い渡された。一方的に作成された供述調書だと主張したが、弁護士は「無罪主張はあり得ない」と協力してくれなかった

 

 「鈴木は公安調査庁の協力者だ」と証言したのは月1回は一緒に飲み、友人だと思っていた人物だった。

 

 10年以降、自身が監視対象だったことも法廷で知った。取調室の男が参加した植林事業があった年だった

 

 拘置所や刑務所で出会う人々にも驚いた。米国中央情報局(CIA)からカネをもらい二重スパイをしていたという元人民解放軍少尉。収賄罪に問われた元裁判官――。 冤罪(えんざい)を主張する人も多かったが、何が真実かは今も分からない。

 

 「おやじの言う通りにしていれば……」。とにかく生きて帰ろうと、体を動かし健康に気をつけた

 

 刑期を終えたのは22年10月11日。体重は96キロから68キロまで落ちていた。その日のうちに帰国便に乗せられ、ぶかぶかのスーツで実家に戻ると、父親が待っていた

 

 「よく帰ってきた」。責める言葉はなく、好物の魚の刺し身を用意してくれていた。6年ぶりに飲んだ日本酒に酔い、柔らかく、温かい布団を抱きしめて眠った。

 

◇経済力増して消えた日本への配慮…それが中国

 

 「私の知る鈴木さんは、スパイなんてできる人じゃない」。元外務省職員でキヤノングローバル戦略研究所理事・特別顧問の宮家邦彦さん(70)は、そう強調し「中国内の権力闘争に巻き込まれたか、公安調査庁への警告だろう。でも、それが通るのが中国だ」と語る。

 

 00年に在中国日本大使館に広報文化担当公使として赴任し、現地で鈴木さんと知り合った。日中交流に奔走し、要人とも気安く面会できる鈴木さんは、仕事で心強い存在だったという。

 

 ただし、宮家さんは、既に日中関係は曲がり角だと感じていた。在任中の02年、北朝鮮からの亡命者とみられる5人が在瀋陽日本総領事館に逃げ込むと、中国当局が領事館に踏み込んで5人を連行した。国際ルール違反だったが、「日本の同意があった」と強弁した。

 

 「田中角栄が北京に降り立った時、皆が日中友好を夢見ていた。しかし、経済力が増すと、もう日本への配慮はいらないという態度になった」と宮家さん「鈴木さんは犠牲者だ。彼が変わったんじゃない。中国が変わっちゃったんだ」

 

◇警鐘鳴らす立場に…信じたい「交われば共に栄える」

 

 帰国してまもなく1年となる昨年9月、鈴木さんは東京・丸の内の日本外国特派員協会で約40人の企業関係者を前に経験を語っていた。

 

 「中国は危険です。独裁色が強まり、法律ですらすべて向こうのさじ加減だ」

 

 昨年3月にアステラス製薬社員が拘束され、鈴木さんのもとには講演の依頼が相次ぐ。習近平政権の14年に反スパイ法が施行され、拘束された邦人は鈴木さんを含め計17人に上っている。

 

 中国に警鐘を鳴らす立場になった鈴木さんの胸中は複雑だ。「中国には怒りもあるし、『友好、友好』と言ってきた反省もある。それでも日中交流は、私の人生だ」

 

 毎年100枚以上も送られてきた中国からの年賀状は、政治犯となった今は一枚も届かない。日中関係も自分が願っていたものとはほど遠い。だが、30年以上の活動が無に帰したとは思いたくない。

 

 「交われば共に栄える」

 

 「歩く人が多くなれば、それが道になる」

 

 中国が日本の隣国であることに変わりはない。自分は歩めなくとも、次の誰かが両国の間で歩みを進めるはずだと信じたい。

 

●南部なんぶ さやか記者  2007年入社。広島、神戸総局を経て大阪社会部。19年から上海支局に赴任し、新型コロナウイルスの感染が最初に拡大した武漢、ロックダウン(都市封鎖)下の上海などを取材した。40歳。