http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/56961803.html

 

陸上自衛隊トップ、辞任覚悟の出動命令

東日本大震災の発災からわずか30分で下した決断

 

2011年3月11日、東日本大震災が発生した。多くの死者を出した一方で、約1万9000人が救助され命を長らえた。その7割を救助したのが自衛隊だ。

p4

被災地を視察する火箱芳文陸幕長(当時)(写真=陸上自衛隊幕僚監部)

:陸上自衛隊における制服組トップ。

 

火箱 芳文(ひばこ・よしふみ)

陸上自衛隊・元幕僚長。1951年生まれ。1974年に防衛大学校を卒業し、陸上自衛隊に入隊。第1空挺団長、第10師団長、中部方面総監を経て陸幕長に。2011年に退官。現在は三菱重工業で顧問を務める(写真:加藤 康)
 

 

生存確率が高いと言われる、発生から72時間の間に3万人を一斉に動員したことが大きく寄与した。ただし、この展開の陰には、ある陸上自衛隊幹部の辞任を覚悟した決断があった。

 

当時、陸上自衛隊の幕僚長を務めていた火箱芳文氏に話しを聞いた。

 

(聞き手 森 永輔)

 

2011年3月11日、午後2時46分。三陸沖を震源とする大地震が日本を襲いました。死者約1万6000人、
負傷者約6000人、行方不明者約2600人(2011年9月11日時点)に及ぶ大惨事に発展した。

 

 こうした中、自衛隊は「10万人体制」を展開。約1万9000人を救助しました。救助された約2万8000人(2011年3月20日時点)の7割に相当します。これは、自衛隊が発災から72時間で3万人近い部隊を現地に集めたことが効を奏したから。

その背後には、火箱さんが辞任を覚悟で決めた「即動」が大きな役割を果たしました。


 

火箱:当時、私は陸上自衛隊(以下、陸自)で幕僚長(以下、陸幕長)*を務めていました。救助部隊を少しでも早く現場に急行させるため各部隊に出動を命じました。災害に遭った人の生存確率が高いのは発生から72時間と言われています。危機的瞬間には手続きの万全さより迅速・実効性ある行動が勝ると思い、この間に大量の部隊を送り込むことが最も大事と考えました。

 

 

でも、陸幕長は部隊の指揮権を持っていないのでは。

 

火箱:おっしゃるとおり、陸幕長は陸上自衛隊の部隊を指揮する権限を持ってはいません。自衛隊の部隊を指揮するトップは統合幕僚長(以下、統幕長)です。

 統幕長は、東北地方をカバーする東北方面隊の総監など、陸自に5人いる方面総監に命令を発する。陸幕長の役割は兵站、人事、教育、防衛力整備を司り、フォースプロバイダーとして統幕長の命令に応じて措置することです。

 

 ちなみに、統幕長は海上自衛隊では自衛艦隊司令官に、航空自衛隊では航空総隊司令官に発令します。

 

 また災害派遣時は原則的には、都道府県知事からの要請を受けて出動します。ただし、緊急時には自主的に防衛大臣から統幕長に災害出動命令を発することができます。しかし、それを待つこともしませんでした。

 

 午後3時前という時間のことを考えました。3月ですから、すぐに暗くなります。それに、いったん隊員が帰宅してしまうと、再び召集するにはさらに時間がかかる。
 

 

次ページ阪神・淡路大震災の言われなき批判をそそぐ

 

中略

 

火箱:どの部隊も本当によくやってくれました。本当に頭の下がる思いです。視察中に気になったことをお話します。第10師団でのことです。ご遺体の処置の仕方です。

 

 隊員がご遺体をみつけると、まず警察官に通報する。警察官が検死をして事件性がないことを確認した後、遺体安置所に搬送します。

 第10師団の隊員たちは、警察官がご遺体にひしゃくで水をかけるだけでまだ泥だらけのまま検死を済ませる中、師団長の指示で化学防護隊が保有するシャワーセットを使って泥やヘドロを落としていました。

 ご遺体が傷み始めると、勢いよくシャワーをかけると壊れてしまいます。なので、水圧を弱め、ちょろちょろ水を出しながらお清めしてご遺体を丁寧に収納していました。

 

 こうした姿勢の違いから第10師団の第35普通科連隊は警察と一悶着起こすことがありました。熱心な隊員たちは警察が引き上げた後も懐中電灯を持って捜索を続けていました。

 その途中で一人のご遺体を発見した。検死はできない。しかし、その場に放置するのは忍びない。そこでご遺体を移動し仮安置しました。これに対して警察から「なぜ動かしたのか」と問い詰められたのです。

 法律を執行する上で彼らの主張は正しい。しかし、場合が場合です。話を聞いて「お互い協力し合うべき立場なのでそんなこと言うなよ」という気持ちになりました。

 

 この時は、地元・宮城県名取市の市長さんが「逮捕するなら私を逮捕してください」と言って取りなしてくれました。


 

トモダチ作戦、米兵はシャワーすら浴びなかった

一等陸佐 笠松誠氏に聞く


p09

仙台空港復旧プロジェクトに携わった自衛隊、米軍、空港関係者の面々(笠松誠・西部方面総監部情報部長提供)
 

米軍と協力して作業を進める中で印象に残っているのはどういう点ですか。

 

笠松:彼らが「日米の間には文化面のバリヤーがある」ということをよく知っていてくれたことです。バリヤーを越えるのは容易なことではありません。しかし、その存在を意識しているのといないのとでは、行動が全く異なります。

 

 例えば彼らは、被災者や空港職員と出会うとお辞儀をしていました。私は他の国で活動する米軍の姿を幾度も目にしてきましたが、あんな光景を見たのは初めてでした。

 

 それだけではありません。彼らは自由に使えるシャワーユニットをいくつも持っているにもかかわらず、それらを使おうとはしませんでした。

 3月とはいえ重労働をしているので汗もかいたことでしょう。髭も剃らないので、ぼうぼうになっていました。なぜかと聞くと、「我々が使わなければ、被災者の誰かが使えるから」と答えるのです。

 

 宿舎として使う天幕も簡易で小さなものを空港敷地の隅に立てて使っていました。

 彼らは、パソコンと巨大ディスプレイを使った会議などができる本格的な天幕を持っているにもかかわらずです。

 これも「余計なスペースを使わなければ、被災者が何かに利用できるかもしれないから」という理由でした。

 

まさにトモダチ作戦の名前通り、米軍は友達として振る舞ったんですね。

 

笠松:はい。幹部学校の教官としてうれしいこともありました。教え子だった米陸軍からの留学生が偶然、仙台空港の復旧プロジェクトに配属されていました。ある時、彼女が「教官、たいへんです」と言って私のところに飛び込んできたのです。

 

 聞いてみると、米軍が業者に発注して設置した簡易式トイレに黄と黒のトラテープが張り巡らされていて、「US ONLY」という張り紙が貼られているというのです。

 簡易式トイレの業者が、契約者である米軍に配慮して張り紙を張ったのでしょう。彼女は、「もし被災者がこれを見たら、誤ったメッセージが伝わってしまう。早く取りはずすよう調整してください」と私に要請したのです。

  中略


 つづきはソース元で ↓

 

https://business.nikkei.com/article/interview/20150306/278346/