こんにちは 時には週7仕事をして 育休中でも”副業”で会社員以上に稼いじゃう! 複業コンサルタントの梅田絵美です。 初めましての方はこちらから |
こんにちは
第1話 梅田絵美Story 〜恵まれていた?出生から幼稚園期
第2話 梅田絵美Story 〜拗らせた小学生時代
第3話 梅田絵美Story 〜暗黒中学時代
第4話 梅田絵美Story 〜Happy高校生時代
第5話 梅田絵美Story 〜勘違い大学生 前編
前回のお話を読んでいない方はこちらに
なりますのでぜひこちらもご覧ください!
妊娠発覚からは怒涛の忙しさとつわりで
半分死んでいたと思いますw
私の小さい頃からの目標というか
夢の一つとして私のおじいちゃんに
結婚式に出席してもらうこと
すでに脳梗塞で何回か倒れていた
おじいちゃんは
小さい時の威厳なく
涙もろくなっていました。
それでも孫の結婚式に参加してほしいという
一存から
立地、環境含めて急いで
式場の選定、両家の顔合わせ、
結婚式の打ち合わせ
ただ私は吐きづわりで起きてるだけで
吐きそうなレベルで
ところてんしか食べれずの日が続いていました。
それでもどうにかこうにか
結婚式までこぎつけ
車椅子にはなりますが、
おじいちゃんも参加しもらえる
結婚式になりました。
私はもっとお金かけて、
そのまま新婚旅行に行くことを
夢見ていましたが、、、
そこは諦めて
その当時にの私たちには
最善の結婚式だったと思います
そこからは夢のマタニティ生活!
とはいかず
私がかなり心配性で
・流産したら?
・早産したら?
・何か私のせいであったら?
と毎日考えていて
かなりヒステリックになっていたことと
主人が仕事の付き合いとはいえ
御前様で帰ってくることや
路上で寝てしまって迎えに行くことがあったりと
私の中のメンタルキャパは
とうに超えて本当にヒステリックに
主人に当たっていたとも思います。
当時23歳
同期や友達は社会人一年目で
こんな悩みを共有できる
共感してもらえる人がいなかった
そこが大きな原因で
主人しか話せる大人がいなかった
なのに放置されているという感覚が
大きかったんだと思います。
臨月になりいよいよ出産間近に
2011年3月11日
そうです
東日本大震災
臨月のお腹で
隠れる場所はどこにもなく
一人であの時間を過ごした恐怖
一生忘れることはないと思います。
2011年4月14日 陣痛により
入院
ここからが地獄です。
8分間隔で陣痛は来ているものの
子宮口は2cm
いい感覚で陣痛が来ているからと
そのうち開くでしょうと
先生の言葉を信じたものの
3時間6時間10時間たっても
状況は変わらず
子宮を広げる
ラミナリアを入れても4cm
定期的に来ている陣痛に耐えられず嘔吐
栄養剤の注射を入れて
24時間が経った頃
「頭が大きくて下から出れないかも」
いやいや
もっとはやくわかっていたでしょw
そこからレントゲンを撮影して
「通れそうだから待とう」
いやいやもう限界です。
陣痛から翌日は休めた主人も
2日連続は休めず
16日になった頃には一人で待機
「促進剤を」
私に選択権はなく
促進剤を入れた瞬間1分間隔での陣痛へ
この時まだ6cmで
東日本大震災もあって
余震も多く、分娩台は10cmにならないと
乗れないという規定が......
永遠と陣痛室で一人で耐える....
そして事件です!w
分娩台2台に対して陣痛のきている妊婦が3人
つまり早い者勝ち
すでに30時間経過している私は
体力が限界にもかかわらず
まさかの3番目に....
36時間経ってやっと分娩台で
出産することができました。
ギリギリまで乗れなかったので
乗ったら即でしたw
普通はここから1時間分娩台で様子を見るのですが
余震もあるので即自力でベットまで歩かされw
倒れ込むようにベットに行った記憶しかありません
ここからワンオペ育児のスタートです。
それではまた〜
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