洛陽の刻(エピローグ) | おいらは、ちびのり(大馬 鹿門)のブログ

洛陽の刻(エピローグ)

既に2010年代に幾つかの兆候があった。

北極の氷は40%も減った。世界各地の穀物産地では干ばつによる不作。
広域に渡る気温と海水面の上昇。海水温は1900年初頭に比べて年間平均2℃上昇。
最高値では10℃以上上昇した時期さえあった。

新興国は、より多くのエネルギーを求めて進出。化石燃料の消費量はわずか20年で10倍以上に膨れ上がった。同時に原発の建設ラッシュが起きていた。
中国など一部の地域では著しい環境破壊が進んでいたが、他国は止めることができなかった。

科学の世界に目を向けると、USAを筆頭にiSP細胞による再生医学の発展は、多くの人々に希望を与え始めていた。失ったからだの機能を取り戻せる夢のような医学の進歩を見て取れた。

多くの国が核兵器根絶を謳いながらも、自国での核兵器保有は維持・増加させていた。
核兵器を持てぬ国は、生物兵器・化学兵器を秘密裏に所有し、国家間の覇権を争っていた。

2100年にひとつの隕石が中国の砂漠地帯に飛来した。隕石落下の衝撃で砂塵が世界中を覆った。これが人類にとっての不幸の始まりだった。

隕石落下から1ヵ月後、中国東北部である病が発生した。
生きながらにして体の末端から腐敗し始め、3日目に息絶える症状だった。
中国政府は事の収拾に躍起になった。 
数日の調査で化学薬品の誤った使用が原因だと結論付けて、内政干渉を理由に諸外国からの調査団入りを受け入れず、事態は解決したと宣言した。

当時の中国東北部の惨状からすれば、諸外国も化学薬品が原因の公害だと認めざるを得なかった。この地域では河川の色が幾つもの色の絵の具を流したような色だったのだから、仕方なかったのかもしれない。

だが同じ症状の奇病は少しずつ広がっていた。
モンゴル、東南アジア、朝鮮半島と、毎月数件のペースで発祥事例が出ていたのである。