頻繁に報道される役人や政治家による文書改ざん、捏造のニュース、最近は某医科大の教授による不祥事も発覚したとか、勿論、詳しい内容は不明だが、そんなニュースを聞き流しているうちに、数十年以上も昔の記憶を思い出してしまった。当時はデジタル社会がようやく視野に現れ始めてはいたものの、未だ世の中は文明開化の動きさえ活発とはいえない状態だった。パソコンは未だ普及しているとは言い難い状態で、国内産、たしか富士通、が発売されたものの、一台買うには当時の月給の何か月分かに相当する札束を手放すには相当な覚悟を要したものだった。しかも、そのパソコンはフロッピ ディスクなしには起動しない厄介な代物だった。
今では当たり前のインターネット常時接続状態も、夢のまた夢状態。ネットに接続するにはダイアル アップ方式と呼ばれていたやり方、電話をかけて通じるとネットに接続し、お話中だと通じるまで待たねばならなかった。第一、インターネットと言われても、その実態は理解不能。
近くの商店街で配られていたパンフレットによりぼんやりとその正体の一端を察するぐらいの心もとない有様だった。そのパンフレットによる知識では、インターネットとはウエブ、つまり蜘蛛の巣を想像すると理解しやすいと、記され、パンフレット全面に蜘蛛の巣のイラストが描かれ、縦糸と横糸の交差するところに、プレートが描かれ、各交差点に番地が割り当てられる、と解説が記載されていた。わかったようなわからないような、もやもやした状態も実際に使い始めてみると、なし崩し的に想像しつつ、その便利さに魅了されてしまった私だった。
真っ先に感動したのは、添付書類としてメールで先方に送ることができるその便利さだった。
この書類などのやり取りは短期間のうちに画期的な進歩を遂げたのであった。
昔は、先方と事前に待ち合わせ場所と日時を打ち合わせ、当日はその待ち合わせ場所の喫茶店などで相手を待つ、といった一日がかりの仕事だった。そのうちに宅配便などというありがたいサービスが誕生し、急ぐときにはバイク便などというサービスまで利用可能となり、面倒な雑事から開放された思いだった。そのうちに、書類のやり取りがファックスで可能となり、また一歩、進化を実感したことを記憶している。
だが、このメールでのやり取りは画期的で、今では当たり前になったこの便利さはさすがインターネットのおかげだと痛感。もっとも初めの頃は文字化けだの送ったデータが読めないとか、トラブルは珍しくなかった。
メールのやり取りの便利さは誰もが痛感するところだが、その一方で落とし穴も忘れてはならないのだ。受信したメールの送り先も確かめず、不用意に添付ファイルを開けると、厄介なウイルスに感染する恐れがあるのだ。ネットに接続されている状態は、自分自身が無防備の状態で、ネット上に露呈された状態であることを忘れてはならないのだ。
次に感動したのは、ワードで作成したテキストの編集のしやすさだった。紙の媒体では手間隙をかけての編集作業も、驚くほどの容易さで効率的に行うことができるのだ。削除も追加も容易で、横書きも縦書きに変更したり、フォントの形やサイズを一発で変更可能なのだ。
呈出する卒論や研究論文などはすべてワードを用いてパソコンで作成するのが当たり前となった学生たちの間では、この紙媒体では到底無理な高い自由度を謳歌するデジタルテキストならではの通称コピペ、コピーアンド ペースト、なるテクを用いて他人の論文からの盗用がひそかに多用され、審査員泣かせだとして問題になったこともあった。今でもこの安直なテクは重宝されているに違いないと思う、
この高い自由度を誇るデジタルテキストのデメリットは言うまでも無く、改ざん、捏造などの違法行為が実に安直に行えることであろう。
また、インターネット接続状態だからこそ可能となるメリットの一つは、情報収集の安直さであろう。検索エンジンにより、まさにワン クリックで知りたい情報が得られる。明らかにスマホ依存症の若い人たちの行動を想像するに、彼らは知らないコトバや話題を耳にするや、直ちにスマホを取り出し,ググル。次の瞬間、彼らのスマホの画面には,検索結果が表示されている。彼らはそれをチラ見して、わかった気になり満足するらしいのだが。。。
果たしてこのように労せずして知りえた知識がたちどころに彼らの記憶に定着できるものだろうか、と不安である。しかも世の人々は絶えずググていないと安心できないらしいのだ。他人や世の中の動きに遅れを取ってはならじと一種の強迫観念にとらわれているように見ええる。これも高速を売りにするデジタル社会ゆえのデメリットかもしれない。
デジタル社会を支えているのは日々進化し続けるITテクノロジで、超高速で情報処理や情報伝達を可能にする。そのスピードは今や光速に迫るとも言われている。このようなテクノロジーのおかげで、様々な利便性を享受できるようになったのだが、その一方で、人々はこのスピードに翻弄され、絶えずせきたてられているような強迫観念にとらわれているようだ。そのため、人々の日常生活から余裕が失われ、人々はじっくりと考える習慣を失ってしまったのではなかろうか。
とかく世の人々の行動や意思決定が短絡的のように見えてしまうのだが。思いすぎでなければよい、と心のうちで願っている。