今朝のニュースによれば、野党が協力して内閣不信任案を提出するという。このニュースを耳にした人の中で、不信任案が可決され、内閣総辞職などと言う画期的な政変が起こる、などと本気で期待する人が居るのかといぶかってしまう。このあきらめと言うか無力感、昔から幾度と無く痛感させられてきた。
毎朝のように繰り返される国境を越えて武力介入してくる横暴さに必死で抵抗する非力な弱小国、自分たちの国を守り、平和に暮らせることを願い、必死で抵抗している人々のけなげな様子、個人の力ではどうにもならないこの無力感。この何ともやりきれない焦燥感、なんかこれに似たもやもや感、前にも幾度と無く経験したような。
社会の底辺で、働き蜂のような役割を与えられている人々にとっては、世の中で何が起ころうとも、自分たちが生きていくために必要な日々の雑事を淡々とこなしていかねば為らないのだ。無意識のうちに、心の中で、この道はいつか来た道とつぶやきながら。
では何故、いつか来た道ではない他の道を選ぼうとしないのだろうか。その理由は、たとえ全く異なる道だと思っていても、実は以前にも挫折した前歴が記憶の中に保存されているからなのだ。
要するに、人間の本能は、全く異なる道を思いつかないようにプログラミングされているのかもしれない。
こんな妄想にふけっていると、なにか絶望的に為らざるを得ないのだ。
例えば孫悟空が思うがままにあちこち飛び回り、やりたい放題、暴れまわったとしんじこんでいたのが、実はお釈迦様の手の平の上で暴れまわっていたという事実を知らされた孫悟空は、それ以来、お釈迦様の忠実な家来になったとさ、めでたし、めでたし、などという昔話を思い出してしまった。
人々は勿論、時代の流れさえも、デジャブなのかもしれない。