大友家家臣、といえば立花道雪などに目が行きがちですがそんな中、大友宗麟を支え龍造寺 毛利らといった大名たちと戦い大友三老の1人として大友宗麟に重用されました。
今回はそんな吉岡長増についてwiki風にまとめてみました!


プロフィール



生誕年・・・不明

死没年・・・天正元年(1573年)

主君・・・大友義鑑→大友宗麟

氏族・・・吉岡氏

父母・・・吉岡重孝?

子供・・・鑑興、林式部



どんな人だったのぉ?

吉岡長増は豊後国大友氏の1族吉岡氏の当主、鶴崎城主として大友義鑑、宗麟父子の2代にわたって仕えました。

義鑑の時代には、
1533年に豊前国の佐田朝景らが豊後国に侵攻、その時には長増が大将となってこれを撃退した。

義鎮の時代には1550年に二階堂崩れの変が起き、その嫡男の大友義鎮(宗麟)が家督を相続、以後、吉岡長増は大友三老として重用される。
豊前、筑前、肥前方分として3カ国もの政務を担当した。

その後は1556年、小原鑑元の謀反鎮圧

1557年の秋月文種討伐に従軍、また龍造寺隆信の討伐に立花道雪らと出陣した。
また外交面では龍造寺隆信と神代勝利を和睦させたり、伊集院忠棟の申し出を受けて日向の伊東家と薩摩の島津家の和睦を成立させるなどした。
その後も大友家の政治の中心人物として活躍した。

1562年には主君大友宗麟と共に出家、吉岡長増は宗勧と号す。
1567年には斎藤鎮実と共に高橋鑑種の討伐に赴くなど主たる戦には大半参加した。

1569年、毛利家が大友領に侵攻してきた時、長増は背後で尼子氏の遺臣山中鹿之助に軍資金を援助し、毛利領への侵攻を手助けしたり、大内氏の旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略して、同時に大内輝弘に兵を与えて周防(毛利の領土)に侵攻させた。
これらの活躍もあり毛利家の大友侵攻を食い止めることが出来た。

1570年には大友親貞率いる大友軍が龍造寺軍と戦い大敗したため(今山の戦)和睦の使者として龍造寺隆信と対面して、和睦を成立させた。

1573年ごろに没したと推測されている。享年は
70代半ばから80代ほどと思われる。
彼の死後大友家は耳川の戦いで大敗、多くの重臣を失った。

同じく大友三老として活躍した立花道雪は家臣団に「吉岡長増、臼杵鑑速の死後大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。


最後に


どうでしたでしょうか?
このような歴史上の人物をまとめるのは初めてなのでまだまだ至らないとこもあると思いますが、この記事をみてくれる人が少しでも歴史に興味を持ってくれたらなぁという思いです!