一日、付き合ってくれませんか、
チェ・ヨンからそう言われたのは、あんな事があってから五日ほど後のことだった。
いいわよ、とウンスが気軽に返事をすると、次の日の朝、かなり早い時間にその男は迎えに来た。
「ねえ、どこへ行くの」
ウンスの問いには答えず、大きな風呂敷包みを持ち、ずんずん歩いて行く。
「歩きなの?」
「いえ、チュホンに乗って行きます」
ウンスと荷物だけをチュホンに乗せ、ヨン自身は歩く。
二時辰ほど山道を行くと,陽が天辺まで昇り切らないころに目的の場所に到着した。
「もしかして此処は…」
「ムン・チフ隊長の墓です」
あの後、ウンスは七年前赤月隊に起こった悲劇をチェ尚宮から詳しく聞いた。
卑劣な暴君に刺されたムン・チフ隊長。
それを無念にも見ているしかなかった隊員たち。
ムン・チフの遺体は重罪人として晒し者になる前に、隊員たちによって秘密裏に王宮から運び出され、ひっそりと埋葬されたという。
こんもりと盛り上がった土に石が無造作に積まれただけの質素な墓は、
それでも苔も雑草もなく、綺麗に手入れされていた。
「隊員は皆いなくなってしまいましたが、テジャンに恩義を感じている民が、墓の守りをしてくれているようです。
叔母も折にふれては参っているようで」
聞いてもいないのに、チェ・ヨンはそう話した。
残った隊員たちはヨンを除いて残らず非業の死を遂げたという。
そのうちの一人が彼の許嫁だったことも、ウンスはチェ尚宮から聞いて知っていた。
チェ・ヨンは供物を並べると、その場に跪いた。
ウンスも並んで跪く。
随分長い間、チェ・ヨンは微動だにせず、墓に向かって目を瞑って手を合わせていた。
ウンスはじっとそんな彼を見つめていた。
たった一人隊長の遺言に従って生き残り、王に仕えることになったチェ・ヨン。
かつての師に何を語りかけているのかは分からない。
ウンスには計り知れない格別の思いがあるのだろう。
ムンが言っていた苦しみ…
生き残ったからこその苦しみは彼にしか分からないことだ。
だが、その表情は意外なほど穏やかだった。
やがてチェ・ヨンがおもむろに立ち上がる。
「もういいの?」
「ええ」
「イムジャ」
「なあに」
「テジャンが…世話になりました」
目を丸くしてウンスがヨンを見つめる。
やがて、ぷっと吹き出した。
「何それ、世話にって…なんか変なの」
「こういうことは初めてで、正直俺も戸惑っているのです」
何て言うべきか、随分考えて言ったのだろう。
それを笑われ、ほんの少しむっとした顔でチェ・ヨンが言い返す。
「私だってこんな経験初めてよ。
まだ実感として湧かないもの。
またそのうちひょっこり来そうで…あ、ごめんなさい」
ウンスが申し訳なさそうな顔でヨンを見た。
「何がです?」
「だって…
あなたが会いたかったわよね」
会いたくない,と言ったら嘘になる。
だが,何故今まで墓にも行かなかったのか、ヨンにはようやく理由がわかった。
今の自分を見せられなかったのだ。
役目どころか生きることさえ投げやりになっているヨンを、ムン・チフが見たらどう思うだろう。
心のどこかでそれを恥じていたからこそ、会いに来れなかったのだ。
黙り込むヨンを見て、ウンスが慰めるように言った。
「ムンさんは、あなたの事をとても気にしていたわ。
きっとムンさんもあなたの所に来たかったんだろうけど,うっかり間違えて私の所に迷い込んだのね」
ヨンは唇の端を少し上げ、頬を緩めた。
「イムジャは……怖くはなかったのですか?」
「そうね、不思議と怖くなかったわ。
あなたと同じ匂いがしたからかしら」
「匂い…?!」
ヨンが驚いたように一歩後ずさった。
顔を肩に近付けて自分の匂いを嗅ぐような仕草をしている。
「…あっ、ち、違うって、そういう意味じゃなくて、」
慌ててウンスは手を顔の前でぶんぶん振る。
「匂いっていうのは、空気感、というか雰囲気というかそう言う意味で」
きっと男の匂いフェチだと思われたに違いない。
ウンスの顔が真っ赤になる。
「決して、変態的な意味じゃないから!」
慌てふためいて言い訳をするウンス見て,ヨンはひとしきり声をあげて笑った。
「テジャンも俺も、同じ雷功を遣います。それ故、似てると感じたのでしょう」
「そうなの…
きっと凄い人だったんでしょうね」
「はい」
「それでさ、チェ・ヨンさん」
ウンスがヨンに向かって手を差し出した。
「何です」
「そろそろあの短刀,返してもらえるかしら」
「ああ…」
ウンスの短刀はあの後、ヨンが預かって行った。
ヨンはその後、ウンスに内緒で霊力を持つと評判の口寄せのところへ短刀を持って行った。
そこで何故ウンスの許へムン・チフが現れたのかを聞いてみたのだ。
結果から言うと、分からなかった。
その口寄せは言った。
『この短刀からは確かに念が残っているのを感じます。
しかしながら、それだけで霊魂は姿を現すわけではなく,霊力が高まる時期,また相性など,様々な要因が重なることにより現れるのです』
『ではまたそれが重なれば,姿を現すこともあるのか?』
『はい,そう言うこともあるかと』
ただしその話はウンスにはしていない。
何故だろう,面白くなかったのだ。
ヨンは懐から赤い飾りのついた別の短剣を出した。
「こちらをお使いください」
女人が使う小振りの短刀だ。
先日市井へ行った時に買い求めたものだった。
「なあに、これ、どうしたの?」
「あれはイムジャには少し大きいかと」
「確かに、こっちの方が軽いし使いやすそう。それに可愛い」
嬉しそうに眺め、振り回すウンス。
「うん、いいかも!
今度ムンさんがきた時、びっくりするくらい上達してたりして〜!」
ご機嫌なウンスを見て満足げに微笑むヨン。
その心の中で、ヨンは呟いた。
(テジャン、ご心配なく…
イムジャは俺がしっかり教えますので)
その瞬間晴れた空の雲間に一筋の稲妻が走ったことは…二人は気付いていない。
【夏宵の夢〜エピローグ】終