一時辰(約二時間)ほど遅れてヨンが文具屋へ到着した時、丁度診察を終えたウンスが奥から出てくるところだった。
無駄に長くなりそうな主人の挨拶を軽くいなし、ヨンはウンスに声をかけた。
「どうです」
「今から説明するところよ。
ご主人も座ってくれる?」
ウンスに促され、文具屋の主人も遠慮がちに座った。
「結論から言うと、お母様は痴呆ではないわ…もちろん先は分からないけど」
「痴呆ではない…?!
まことでございますか!」
母が痴呆ではないと聞いて、胸を撫で下ろす文具屋の主人。
だがすぐにまた不安げな表情に変わった。
「では、本当に幽霊が…? 」
「残念だけど、私はそっちの専門家じゃないから、見えているものが何かは分からないわ。
だけど私はシャルル・ボネ症候群という病気を疑ってるの」
「しゃるる…それはどのようなもので」
「目が見えなくなると脳が補おうとして、無いものを見せることがあるの。
分かりやすく言うと…そうね。
夢って眠っていて目で見てるわけじゃないのに、情景が見えるでしょう?
あれと同じことが、起きている時にも起きる…って言えばわかりやすいかしら。
目が見えなくなった人にそういう症状が起こることがあるのよ」
「そのような病気があるのですか…。
では母はこのままどうすれば良いのでしょう」
「その症状自体は、数ヶ月~1年程で自然に収まることが多いの。
目の血流を良くするお薬を後で届けるから、少し様子見、ってところね。
お母様には、痴呆ではないことは伝えてあるけど、病気のことは伝えてないの。
この病気はあまり否定したり不安に思わせないことが大事だから」
「そうですか……お恥ずかしい事に、私は散々母を責めてしまいました」
「仕方ないわよ。
お母様を心配してのことだもの。
お母様には、あまり見すぎると疲れて頭にも身体に良くないから、お薬飲んで気楽に過ごして、って言ってあるわ」
実際、ウンニョの脈には気の乱れが現れていた。
色々とストレスがかかっているのだろう。
「分かりました。
では皆にもそう言うようにして、この騒動を収めることにします」
「そうね。
でも痴呆じゃないって分かって、お母様も安心されたみたいよ。
ご自分でも不安に思われてたのね」
「医仙様、大護軍様、何とお礼を申し上げて良いか…本当にありがとうございます」
文具屋の主人は、何度も二人に頭を下げた。
また、様子を見に来ると約束して、ウンスとヨンは文具屋を後にする。
「イムジャ、折角なのでマンボの店でも寄って帰りましょう」
ちょうど時刻は夕餉時、至るところからいい匂いが漂い始めている。
ウンスも腹が減ったはずだ。
「ほんと?行きたい!
でもスミさんに言ってこなかったわ」
「先程テマンに言伝てておきました」
「さっすが、気が利くぅ!
じゃあこのままデートしましょ!」
ヨンの腕にウンスが手を絡める。
二人きりで出かけることを、でえと、と言うらしい。
妻のご機嫌な様子に、ヨンは口元を綻ばせた。
「いらっしゃい!
あれ、今日は二人連れ立って、珍しいね」
いつも元気なマンボ姐が二人を出迎える。
「マンボ姐さん、お酒とつまみをお願い!もちろんクッパもね」
「あいよ、ちょっと待ちな!」
早速酒と美味しそうな御菜が何品も卓の上に並んでいく。
「おや、ヨンと天女じゃねぇか」
そこへマンボもやって来て、二人の前に座った。
「今日はあの霊能婆さんの所へ行ってきたんだろ?」
「ええそうなの、よく知ってるわね」
「そりゃそれが商売だからな。
で、どうだったい?
やっぱり本物だったかい?
それとも痴呆かい?」
「痴呆ではないことは確かよ。
それに多分、霊能者でもないと思う」
「へぇ、なんで分かるんだ?」
「あのお婆さん、私の後ろに母が立ってるって言ったの」
「あんたのおっ母さんが?」
マンボ兄妹と、ヨンも驚いて目を見開いた。
「ええ。おかしいわよね。
だって私のお母さん、まだ死んでないし。ずっと未来の人よ」
「たしかに」
「凄く具体的な説明をしてくれたの。背格好から、来ている着物まで。髪に蝶々を形どった銀色の簪を挿してる、なんてことまで。
だけど有り得ないの。だって、ヨンは知ってるでしょ?
天界でこんな格好してる人なんていないって」
「ええ」
ヨンなら分かる。実際天界を見たからだ。
だが、あの老婆は、ウンスがずっと先の世から来たのだと知らない。
「つまり、死者を見ている訳ではなく、ただ幻を見ている、という訳か…」
「そういうことだと思うわ」
ウンスは頷いた。
作中に、プラバシーポリシーに反する部分が含まれますが、時代を考慮して、おおらかに読んで頂けると幸いです
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