1970年中期から1980年代にかけて全国の「ちょっと変なの好き」少年少女に
音楽や映画演劇などのサブカルチャーを届けてくれていた素敵な全国誌だった。
当時は自主制作盤と言われていた
インディーズの新譜やGIGの情報に力を入れていたのも
宝島でだった。
うちら京都には「ペリカンクラブ」があったけどね。
でさ、その宝島が立ち上げたレーベルが「キャプテン・レコード」
俺にとっては、この当時のヨーロッパを中心とした音楽シーンの中でこの「レーベル」は
とてもとても重要な位置を占めるわけで、そのアタリのお話は別の機会に。
1980年代から日本でも自分たちの音源を自費でLPを制作して発信する動きが大きくなってきて
沢山の音源が黒いビニールになって溢れるようになってきていた。
しかし当時は今のようにりんごや窓を媒体にした配信システムや音楽宅配システムが無かったから
個人制作したLPは自分たちがレコード屋さんにそのLPをもって行って置いてもらうわけ。
で一か月ほどしたら売れた分だけ集金に行くわけよ。
熊本県は八代地区の八代蓄音機というレコード屋さんに自分たちの素敵なLPを置いてもらいたくても
事実上不可能なわけ。
俺たちのLPを腰があって
もちもちした触感の
愛媛のうどんを
普段から食すことのできる幸せな
襟が高くて裾の長い、
だらしない学生服を着た
不良少年に
どうしても聞かせたいなら
一週間に一回は練習をして、
SAXもドレミファソまでは
吹けるようになって
8月8日に万国博覧会跡地の公園で
髪の毛の長い、
へんてこなトレーナーを着て
愛だ鯉だと
叫ぶようなバンドと
シンサインと呼ばれる
どう見ても農協で
今年のなすびの出来を審査したほうが
似合いそうなお兄さんたちの前で
イントロがあって
間奏でギターソロして
エンディングが終わったらお辞儀して
運と愛想がよければ
テイチクの営業担当部長から
茨城駅前の
5月の爽やかな風がほほをくすぐる
福田屋百貨店の屋上で
赤い風船手にした百姓の前で
演奏してきてくださいな
と頼まれて「はい」と元気よく答えて
それでやっと
新潟の清らかな水で育ったコシヒカリを
毎朝、祖母が作る
今朝畑から
採って来たばかりの大根の味噌汁と
一緒に食べて育った
ほっぺの赤い女子高生が
ある日
駅前の上杉景勝レコード店の店頭で
鳥羽一郎の笑顔が素敵なジャケットの
LP盤のとなりに置いてある
俺たちのLPを手にすることができる
のだった。
俺たちは愛情の溢れた家庭ですくすくと
育ったせいもあって
上記のような
メジャーデビューに至る方法を
夢にも思いだすことはできなかったから
大量に積まれた在庫を前にして
ため息をついていたら電話がなったんだ。
「キャプテンからレコードださへん?」
声の主は当時京都ニューウエイブ界の
大御所 スタックオリエーションの
ナンブ氏だった。
「キャプテン・レコード」は
前述のように大手レコード会社でもないし
一応全国誌を出している会社だから
多分本社の登記上の所在地は東京都に
置いているだろうし
植草甚一も関係あるらしいから
まさか宝島の営業担当課長から
鳥取 智頭地区の盆踊り大会に
キャンペーンで行かされることも
ないだろうと踏んで
「出します」とみんなで元気よく
答えたんだ。
で、めでたく発売されたのが
このLP
「KYOTO NIGHT」
現在 CDで復刻されていて
アマゾンで買えます。
でもオリジンは実は2枚なんです。
1986年冬に京都会館第二ホールで
久しぶりにフルメンバーのEP-4
がGIGを演ったんだ。
EP-4はその当時はUNIT形式でGIGてて
バナナ氏が参加したLIVEは久しぶり
だったから俺も大沢伸一氏と観にいった。
その時のLIVEが1枚目に発売された
「KYOTO NIGHT」
俺たちはその1年後に発売された
「FUNKALTE..」
1枚目に参加した
JUNK JUNGLE GENRE
2枚目に参加した
HIP-SEE-KID
HYSTERICS
ANDY AND HIS FIRECRACKERS
以上のバンドの
メンバーが集まったのが
俺たち
Fairo Vanz
なんだ。
俺が大好きだったEP-4の
故チャンス・タツオ氏が
HYSTERICS
でギターを弾いてくれています。
大沢伸一くんもクレジットは
SHIN-Cで参加してます。
よかったら聞いてみて下さいな。
テイチクからデビューしなくてよかたあ。
でも 大分 湯布院はいきたいなあ



