2015年初めにフーシ派が首都サナーを制圧して以来、そのリーダーたちは自身を「イエメンの真正革命」を進め、守護するものと位置付けて、イエメン社会の再構成をすべく政策を取りましたが、その背後にはイランとレバノンのヒズボラの影響があったと見られています。実際、フーシによる国家構築は、NDC(National Dialogue Conference: 国民対話会議)での合意に基づいたものではなく、より正確には、2011年から始まったアラブの春当時のイスラム改革を表したものに思われました。フーシ派のリーダーは、男女の格差に対して超保守的な解釈を適応し、ダーイシュ、アルカイダ、タリバンらと同様に女性の男性への服従を基本としました。しかし同時に、フーシ派は国家再建のための公共業務など、女性の多面的な役割への参加を促しました。

 しかしながら、男女の役割はその時の社会、政治、経済の情勢によって変化するもので、イエメンにおける女性の立場はその後の戦争や国家建設の進行により制限されざるを得なかったのです。結果としてフーシ派による女性へのサポートは、政権の安定化と法整備、そして政権そのものの生き残りをかけた戦略の中で、限定的で条件付きなものでした。

 戦争下では、フーシ派は男性に対しては敵から自国を守ることを期待する一方で、女性には国の存続への貢献を期待して。国家独自のイデオロギーと国家アイデンティティ、そして将来を担う子供たちを産み、育てるために必要とされたのです。フーシ派が女性の身体と性を制限することが政策の中心に据えたのはこのためでした。

 フーシ派の国家主義と独裁政権への支持も女性の役割とされ、それによるイエメンの父権社会、政治的分割、その他社会の階層化につながってきたのですが、これらは人権活動家に言わせれば、あまりに階層化されすぎていて、すべての人が安全で尊重されていると感じられるような、平等、正義、人的尊厳に基づいた包括的で平和な社会を築くにはあまりに障害が多いということです。