https://youtu.be/wHsTgl_Md7c?si=yK08a9--2a2wVkp2
1年かけて初回から視聴させられた
「山崎の戦い〜光秀生存ルートダイジェスト」
のOPよりも
劇中曲のこっちが頭から離れません
OPはこっちです↓
公式ツイッターが山崎の戦いの件に言及してから、YouTubeからクレジット付動画がなくなってしまいました
木立を仰いだ場面は明智藪だろうな〜となんとなく思ってましたが、泥田の中で叫んでるのが伝吾か左馬之助なのか?
確認しようとした人が結構居たのかな?と。
しょーがないので、オンデマンドで3ターンぐらいイッキ見を繰り返してます
センター寄せが落ち着かないんで、左寄せに戻します。
光秀生存ルートは日光東照宮に続く「日光街道」の物語りでもあります。
流山北部のこの辺りは、戦国時代は北条氏に属する土着氏族の支配。
秀吉の小田原攻めで武装解除し、城郭は破却して土豪化。
関ヶ原の戦いで東軍支援をして江戸時代は幕府天領化。土豪氏族は代官に復帰してお家を守り明治維新に至る。
室町時代の名残りが色濃く保存されてる面白いエリアです。
光秀生存ルート天海説は伝説かもしれませんが、事実の話しをします。
非常に近所の日光街道沿い寺社、当地代官菩提寺の境内に、大昔から「知らない人がいないほど有名な秘密」の庵があります。
極めて良く管理され、誰も立ち入れない入口がどこかわからないほど強固な塀で囲われた百坪ほどのエリアです。
近年少子化と維持管理負担に耐えかねて、管理を市か県、何なら国に委譲したい。御家を辞めたいとの意向が所有者から上がり、DNA鑑定を含む学術調査と限定的な一般公開が始まりました。
そこは大昔から言われてきた通り、
関ヶ原の戦い西軍総大将・石田治部三成の娘と娘婿、その子どもたちを日光東照宮の某氏が当地代官菩提寺に命じて匿い、資金援助をして庇護した庵でした。
江戸幕府の膝下天領のど真ん中に、落ち武者狩り激しい西国の関ヶ原から隠れて逃げてくるルートやシステムがガッチガチにあった、と。
1600年代初頭、確実にこの道を歩いて石田治部の幼子も含む家族が「誰か」の庇護で「ここ」に来たのです。
その「誰か」は世の人の口を封じられるほど強く、天領代官に指示を出し、家康に石田治部の一族を匿うことを認めさせ、菩提寺に末永い資金援助をさせ続けるほどの権力がありました。
その誰かがどなた様だったのか、私どもにはもう一人のお名前しか思い付きません。
多分、麒麟が来たのでしょう。
歴史は起こった出来事を俯瞰した流れであり、その時々、人は勝手に動き続けます。それが良いと思ったからそうした結果の積み重ねで、時として人は誰もが思わぬ判断をし、途方もない遠方に出現することすらあります。
皆必死に生きてきた流れの積み重ねは、一つの価値観や固定概念で解けるものではありません。
前庭神経炎が治ったら日光東照宮に行きたいなぁ、とか、いやなにより美濃の国に行きたい、とか。
そんなことばかり考えて、今日もリハビリに努めています。
お読み戴いてありがとうございました😊🙇