今から四半世紀近く前のこと。
ペスト禍を公衆衛生史学として恩師T先生から学んだ折、パンデミックには社会として必ず辿る5段階があると教えられた。
1)無抵抗段階
  →それが伝染する疾病であることを知らず、雷撃に倒れるように罹患してゆく段階。
2)萎縮段階
  →それが伝染病である認識を持ち、過剰なほどに全ての活動を萎縮させてしまう段階。
3)排斥段階
  →その疾病を持ち込んだ、もしくは故意に伝染させた「犯人」を社会全体で決めて、スケープゴートを仕立てて社会から排斥・追放する段階。
4)享楽・放縦段階
  →疾病を「気にしなく」なり、自ら感染を招くような行為に耽る。疾病の実在を否認し始める。通常時であれば許されないほどに社会全体が享楽的になる段階。
5)終末段階
  →感染者がとどまることなく増大し、誰に言われずとも社会が自然に停止する。社会コミュニティは消滅し、文明や国家が終焉を迎える場合すらある。人間がいなくなりすぎるか病原体が変異するか、或いは抗体を持つ者が増大した、いずれかの条件を満たしたときに流行は終息する。

(1)〜(3)、そして(5)は感覚として理解できたのだが、
(4)の享楽・放縦段階ばかりは理解しかねるものだった。それは周囲の学生誰もがそうだった。
その現象について考えが及ばず、誤訳や誤解釈の可能性を問い、原典・出典根拠を求める未熟な私達に、先生は静かに仰った。
「君たちの将来に、突然わかる時も来るかもしれない。だけど、これはわからないほうが、いいものだから、そういうものだとだけ覚えておきなさい」

かくして時は今、2020年。
2月からこちら、日々先生の言葉を反芻し、今がどのあたりであるのかを日々考えずにいられなくなった。
悲しいほどに私達は1300年代から進歩無く、不気味なほどに同じ精神性を踏襲し続けている。3つの密という言葉ができただけ、ほんの少しマシなのかもしれない。が、わかってはならない、理解できないほうが幸福だったと、心から思う。
即ち、T先生は偉大だった。

私達は今、まちがいなく(4)の段階に居る。

気をつけろと耳にタコができるほどに言われているのに、個人は必死に不特定多数と同席する場に出かけ、日本国はGoToキャンペーンを前倒しにして遮二無二国民を遠出の旅行に誘おうとしている。アメリカではマスクを取ると拍手喝采を受け、フランス人は集団で踊り始めた。ブラジル大統領などは自ら率先して記者を感染させようとし、大統領府のスタッフをフルノックアウトし、一気に終末段階まで突き進む勢いである。
恐ろしいことに、殆どの人々は、無私の美徳・社会への献身の一環として「恐怖を克服して」これらの行動を行っている。まるで「気をつけろ」と警告する人間にこそ悪意があるといわんばかりなのだ。
コロナはただの風邪と絶叫する輩も出現した。
マスク装着の是非を、政治的スタンスの測定に用いようとするトンデモな輩も、多く見た。
全部が全部四半世紀前にT先生から聞いたままの定形で、何故人間社会は必ずそうなってしまうのか、その精神性を研究して再発防止を行ったほうが疫病の抑止につながるかもしれないとすら考えてしまう。

何故死の既定路線に自ら乗りたがるのか、政府が先導して集団自殺を加速させるのか、日本は特に死亡率を抑えていたのに何故台無しにするのだろうか、等など考えた時、日本人は75年以上前に政府主導で集団自殺を決行しかけていたことに、改めても気付かされた。

今回のコロナ騒動で発露した異様な行動は、様々な場面で度々「戦争中の日本人」と酷似することが指摘されている。比喩ではなく、ある意味で今世界中が戦争をしているような状態になってしまっているので、民族性の悪い側面が炙り出されているのかもしれない。

社会全体が狂騒状態になると、スケープゴートは必ず発生する。
○○人が井戸に毒を・・・などという粗野粗暴なものだけではなく、更に複雑怪奇な精神性で、集団の暴力は力無いものを殺し、その犠牲は巧妙に神聖化され、更なる生贄を呼ぶ。

日本人のトラウマと言っても過言ではない、平和教育の金字塔、「かわいそうなぞう」など最たるものである。
トンキー・ワンリー・ジョンをはじめとした上野動物園の動物たち、日本中の動物園で殺された大型動物たち、それらの殆ど全ての死に、軍司令部が殆ど関与していないことは、近年次々と明らかになっている。
【参考】
(Wikipedia)戦時猛獣処分

要約をすると、

上野動物園に関しては、来たるべき大空襲の為に
東京都知事や市民が先導して
該当部署や軍部をも押しのけて「総玉砕」の手本とする為に
本来の目的だった獰猛な大型肉食獣の処分を通り越して
助かる筈の草食動物も生後半年のヒョウの赤ちゃんも一切助命を許さず
戦時中は「鬼畜米英のせい」
戦後は「軍部のせい」にして
皆殺しにして、責任転嫁をした。

という恐ろしい物語である。

動物の檻にダイナマイトを括って「空襲が来てどうにもならなくなったらもろとも爆死しますので何卒ご安心ください」と、殺処分を求めて雪崩込む市民を制した東山動物園の飼育技師の話など、胸につまされ涙が出てくる。

一方、動物園に寄せられた少年少女の手紙には、はっきりと皆殺しの意図が描かれている。
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これらの動物達を殺させた米、英を討たねばなりません。軍人を志望している僕です。戦場でこの殉国動物の仇討をしてやりたいと思います。そうすれば、僕を喜ばしてくれた動物も喜んでくれると思います。(『実録上野動物園』から)引用ママ
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動物は子供を喜ばそうとしてなどいなかったし、況や、仇討ちをしても喜ばない。都知事が死ねば喜んだかもしれないが、彼は戦後文部大臣になった。

平時に見れば「ばかじゃないの」
の一言で括れるような愚行に、非常時には大挙してしがみつき、大義名分を創造し続けてきた歴史を直視しなければならない。
題目は常に美しく、犠牲を伴うものはより強く人々を魅了する。

これを心理学的な表現をすれば「正常化バイアス」とかそういうものに類されるものなのかもしれないが、犠牲を求めて社会を動かそうとする同調圧力には、何か特別の名前が付けられるべきかと感じられる。
もしかすれば、それは狂気とか信仰とかそういう性質のものなのかもしれない。

特に政治家が自らの行いを「営利目的」でやらなくなった時、「国家の存亡」とか「国家の一大事」に身を捧げはじめたら、それが一番危ない時だと、T先生は仰っていた。
利益が無いことを万人に非難されても犠牲を払って行おうとし始めた時、即ちそれは「あたまがおかしくなっている」時であり、判断が正しいことは万に一つもありえない。

そういう時代はどうすれば正解だったのかと当時T先生に問うた答えも、不思議と胸に突き刺さっている。
先生は、
「距離をおけ、関わるな、敵ができるので止めるな。自分一人を貫きなさい」
と仰った。
金言であると身にしみて思う。

市民一丸となって泣きながら象を殺した時代のことは明らかに
「あたまがおかしくなってた」
と、理解できる。
なれば、
観光地の経済を回すため、恐怖をこらえて国民一丸となってGoToキャンペーンを行う今現在は・・・?
少なくとも今の日本政府に、上野の動物を慰霊する資格は無いと感じてしまう。

自分のままでいること、感染に気をつけて粛々と日常を積み重ねること。
これが一番大切なことなのだと、近頃特に思う。

文責:水棲疾病基盤研究所