花巻に行った際に、高村光太郎記念館にも行きました。

 

 

↑巨大なリースがありました。ドライになってもきれいでした。出来上がった時はさぞ美しかったと思います!

 

彫刻家であり画家であり、詩人であった高村光太郎。

 

父親は高村光雲という有名な仏師で彫刻家でした。

 

上野の西郷さんを作った方です!

 

高村光太郎の作品は早くから注目されていました。

 

同じく芸術家であった妻、智恵子は思うように評価されない自分の作品にプレッシャーを感じ、心の病に陥り亡くなります。

 

智恵子の死後、光太郎は智恵子に関する詩をたくさん発表します。

 

悩めるものを元気づけたい、智恵子のように心を病んでほしくない、という気持ちから第2次世界大戦へ赴く人々への応援の詩を書いた光太郎。

 

自ら空襲に合い、日本が負けてしまい、何よりも自分の詩で戦地へ赴いた人々がいて亡くなっていったかと思うとそれは光太郎に多大な自責の念を植え付けました。

 

1945年、戦争が終わる少し前に東京で空襲に合った光太郎は、アトリエなどすべて失い、宮沢清六を頼り花巻へ向かいます。

 

宮沢清六は、宮沢賢治の弟です。

 

高村光太郎と宮沢賢治は交流がありました。

 

1924年に賢治の初めての詩集、「春と修羅」が発表されました。

 

高村光太郎の友人である詩人の草野心平は、この詩集を高く評価し、光太郎にも勧めます。

 

光太郎も賢治の詩の世界に感銘を受けたそうです。

 

1923年から草野心平が発起人となった雑誌「銅鑼」に、高村光太郎、宮沢賢治も作品を寄せました。

 

東京にいた草野心平、高村光太郎と、賢治は文通をしていたそうです。

 

1933年に37歳で亡くなった宮沢賢治を偲んで、草野心平を中心に東京で追悼会を開いたそうです。

 

「私が亡くなった後、作品を本にしたいという人があれば本にしてほしい」と頼まれていた賢治の弟、清六が追悼会に訪れました。

 

鞄いっぱいに詰め込まれた原稿と一緒に。

 

その中に有名な、「雨ニモマケズ」の詩があった手帳もありました。

 

手帳を、詩を発見したのは、高村光太郎でした。

 

生前は「春と修羅」「注文の多い料理店」の2作品しか発行されていなかった賢治の作品。

 

その膨大な原稿と心打つ文章に感動したその場にいた人々は、「宮沢賢治全集」を作らねば!と尽力を尽くしました。

 

すぐに刊行が決まり、タイトルを書いたのは高村光太郎。

 

1934年、宮沢賢治の作品が世に出たのでした。

 

1936年に羅須地人協会のあった場所に建てられた、「雨ニモマケズ」の詩碑も高村光太郎の書によるものです。

 

 

この縁があって、光太郎は花巻に疎開しました。

 

初めは兼六の家に身を寄せていましたがそちらも空襲にあったため、花巻市郊外の山林の中の古い小屋で7年間の自炊の生活を送ります。

 

その間、絵は描かなかったそうです。自分に対する戒めだと。

 

桑の畑の後ろに高村山荘はありました。

 

写真で見るよりきれい、と思ったら、元の建物を囲ってあったのでした。

 

土壁で、窓は和紙でふさがれていて、冬はとても寒かっただろうことが伺えます。

 

1952年に青森県から、十和田湖に記念碑の像を建ててほしいと依頼を受けた光太郎は花巻の生活を終え東京へ帰ります。

 

賢治と草野心平は直接会ったことはないのですが、高村光太郎とは会ったことがあります。

 

1926年、東京を訪れた賢治は光太郎を訪ねました。

 

ちょうど夕暮れ時で忙しい時間だったということで、光太郎は「明日の午後早い時間に来てくれないか」と伝えたそうです。

 

賢治は「また来ます」と言って、そのまま2人は会うことはありませんでした。

 

とってももったいない話です!

 

2人がお話をしていたら、どんなことを話したのでしょう。

 

もしかしたら、また違った作品が生まれたのかもしれません。

 

宮沢賢治について高村光太郎が残した評論がとても心に残りました。

 

…内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心にいても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮沢賢治は稀に見る此のコスモスの所持者であった。彼の謂うところのイーハトヴはすなわち彼の内の一宇宙をとしての此の世界全般のことであった…(評論「コスモスの所持者宮沢賢治」)

 

今のようにすぐに連絡の取れない時代に才能が繋げた人たち。

 

内にコスモスを持つ人になりたい、と思ったのでした!

 

この話によく似た話を聞いたことがある、と思ったら高校の校長先生のお話でした。校長先生は高村光太郎とも知り合いでした。

 

このお話はまた明日。

 

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