無駄を堂々とやる! | 空はどこから/猫の長靴

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日記は苦手だけど、何があって何を思ったのか、あんまり分からなくなるのもねぇ(´Д`)
だからちょっとだけ、記録を残します。

私は一時期、仏教マニアだった。

20代最後の頃、腎臓を患って2ヶ月ほど入院した。
別に死ぬほどの病気でもなかったのだが、人生観を変えたかったんだろうね。仏教関係の本を読み漁った。


…ちなみに、この入院の時、今の妻が見舞いに来た。ベッドの脇に座っていると、偶然、父が入って来て
「あっ」と驚いてすぐ出ていった。
「あいつのところに女の子が来てる!」と両親大騒ぎだったらしい。
つまり、私はそういう奴だった( ̄∇ ̄)



以下の文章は、あくまでも素人意見。
私が「感じている」仏教です。


私の家系の宗派は「真宗大谷派」。言い換えれば浄土真宗の東本願寺派。京都人風に言えば「おひがしさん」

でも、仏教関係の本を読むなら、禅宗が面白い。
一休さんの臨済宗か良寛さんの曹洞宗だね。

あんまりテキトーに読み漁ったから、どの本に何が書いてあったのか分かんなくなってる。

その中で、面白かったな~と思い出す本がこれ


板橋老師は曹洞宗のかなり偉いお坊さんなのだが、文章に程よい愛嬌がある。

仏教本は、高僧の伝記なら「こんなに凄い人」となるし、本人の著書であっても気張ったものが多い。

板橋さんの場合、
「自分は他人の目がないと怠けてしまう。へ理屈をつけて怠ける自分を許してしまう。
役職を付けられて、道場で寝泊まりしたから、後輩たちの目を気にしながら、やっと修行を続けられた」と言う。

『むだを堂々とやる』というタイトルもいい。


そもそも、道元禅師の「只管打坐」とは何を意味するのだろう。

退院後、曹洞宗のお寺の参禅会に毎週通った。高速バスで片道1時間強。怠け者の私としては、良く頑張ったものだ。

坐禅の後のお茶の席で、ベテランのおじさんが何気に言った。
「ま、座ってればいいんですよ」
この言葉を額面通りに受け取るか、その真意を感じ取ってニッコリするか、それは受け取り手次第だろう。

会の幹事さんが言っていた。
「坐禅というのは、とにかく毎日続けるものです。
そうすれば、何かがあった時も『自分は毎日坐禅を続けられた』ということで自信を持てるのです」

だったら、坐禅じゃなくてもイイじゃないか…
そう、何でもいいのである。
続けられれば。


「飯を食ったら茶碗を洗え」という言葉がある。
難しいことを四の五の言うよりも、まず目の前のことをキチンとやれ、という意味だ。


毎日続けた「こと」が、有意義だったか無駄だったのか、
それは知ったことじゃない。

どうせ「メシを食ってクソをする間」の出来事だ。

何にせよ、頑張って続けてみる。
それが、自分を人生の「主人公」にすることなのだ。

ちなみに「主人公」という言葉も、仏教用語である。



《最後に》
坐禅はその後、関西でも細々とやっていたが、結局、続いていない。
足が硬すぎて簡易版の「半跏趺坐(はんかふざ)」も組めないのだ、というのは要らない言い訳。


愛猫‘みる’が死んでから、毎日仏壇の遺骨に向かって「般若心経」を唱えている。

これは愛猫への執着心がある限り続くだろう。

そしてそれは、
妻と「お互いの目」を意識しているから、続けていけるのかも知れない。







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