『フーテン』~永島慎二 | 空はどこから/猫の長靴

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日記は苦手だけど、何があって何を思ったのか、あんまり分からなくなるのもねぇ(´Д`)
だからちょっとだけ、記録を残します。

お茶碗一杯の飯
お茶碗一杯の飯を
俺は食えなかったことがない
どこかでお茶碗一杯の飯を食えなかった奴がいる
俺が食った分だけだ
だから俺はいつもひもじいのだ


永島慎二の『フーテン』を読んだのは大学生の時。
ああ、新宿に行きたい!と思った。
でも時代が違う。
これは昭和30年代のフーテン族の話。


新宿の朝焼け、カラスが鳴いている。
街角でおじさんが焚き火をしている。
一人10円で当たらせてくれる。
その寒々しい空気が、閑静で叙情溢れる紙面から伝わってくる。



冒頭の言葉は急死した若者が残した詩。
この若者は「ひもじさ」を抱いてフーテンになった。

誰かを踏みつけにしている、誰かの飯を奪っている、そう考えると心はひもじい。


どれほどの人間が思っているだろう。
私たちは日本に暮らしているというだけで、搾取する側に立っている。
日常にあふれる安い食料、衣料品。
これは日本の数十分の一の賃金で作られた物だ。
それを安全がどうの品質がどうのと文句を言いながら浪費している。

心がひもじくならないはずがない。

自分は真面目に働いている、例えば満員電車の中の人は皆そう思っているだろう。

でも、本当に飯を奪う側になっていないか?
対価に相応しい「仕事」をしているのか?
社会にアグラをかき、人の役にも立たない、むしろ害悪の片棒を担ぐことをしていながら、不遇をかこったりはしていないか?

ひもじくないのではない、ひもじさに気がつかないフリをしているだけだ。


新宿フーテン族は何も産み出さない。
都会に巣喰う動物だ。
ただ生きている。
時には犯罪すれすれのこともする。

だが、永島慎二はそこに埋もれた。
すでに名が知られ、家庭を持ち、アシスタントもいる漫画家でありながら、フーテンの世界にのめり込んだ。
彼はどんな「ひもじさ」を抱え込んでいたのだろう。

『フーテン』には永島慎二自身が登場する。永島は若いフーテンたちと、笑い、泣き、怒り、そして呆けていた。

一つの時代が終わった時、若者たちは、どのように生き続け、どこにたどり着いたのか。


永島慎二は、その後も漫画家を続け、麻薬所持でちょっと捕まったりもした。
晩年のエッセイでは、自分の息子をベタ褒めした一節があって「やっぱり老いたかな」と感じたりもした。

彼は平成17年、67歳で亡くなった。

永島慎二を表現するならば
「漫画家という生き物だった人」
と、私は言いたい。







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