結婚6度目 今度は奥さんが逃げた!?

結婚6度目 今度は奥さんが逃げた!?

離婚歴5回。現在、六度目の結婚で妻と別居中!これってヤバい状況では 。。。

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「モテキのはじまり」の後、小林麻央さんの訃報に接した事もあって、自分史的には時代が少しばかり後の方にいってしまったので、ここらで話を戻しておこうと思う。

 

この話の頃、つまりボクが2度目の結婚生活の只中にいて、奥さん+彼女の三人暮らしという極めて変則的な生活をしていた。

 

なので、某有名ブランドの女子社員を自分が経営するスポーツ用品に引き抜いたのも、「モテキのはじまり」で書いたように<家に帰ると、奥さんと彼女が 「お帰り~」と迎えてくれ>ていた、まさにその頃の出来事なのだ。

 

そしてこの頃、子どもが産めない身体である事を泣きながら告白した女子大生と別れや、焼き肉デートを楽しんだ彼女の親友との交流が始まろうとしていた時でもあったのだ。

 

 

さて話を引き抜きに成功した某有名ブランドの女子社員に戻そう。

 

 

彼女の入社が決まったのは、8月1日、最近の言葉でいえば「猛暑日」のような暑さの日だった。

 

出勤初日は、兼ねてから約束していたとおり、ボクが彼女を自宅まで迎えに行き、二人で一緒に出社した。

 

 

ファッションビルの中にいても周囲の眼をひくほどの美人を、いきなり同僚として迎えた社員たちの気持ちはいかばかりだったろうかと、今となれば思いやることもできるが、当時のボクはそんな事にはおかまいなしだった。

 

なにせ、社長就任の日に、フルフェイスに皮のジャケットという出で立ちで出社するような自信家だったのだから、そんな事に気をつかうわけもなかったのだ。

 

その日から本店1階のウィンドウディスプレイやウェア売り場のディスプレイなどを担当する事となった彼女は、周囲が驚くほどの手際でお店を作り変えていった。

 

 

しかし、周囲からは完璧と見えるそのディスプレイも、ないないずくしの状況でなんとか誤魔化しただけという、彼女自身はまったく納得できないものだったのだ。

 

結局、出社初日にして早々に、彼女は一流ブランドのショップとスポーツ用品店の違いを実感することになったのだ。

 

その日の帰り、彼女を送る車中で、これからのスポーツ用品店のあり方について、彼女はマシンガンのような勢いでディスプレイの重要性や売り場の配置など、ずいぶんと踏み込んだところまで話してくれた。

 

なにより、こんな風に熱くビジネスについて美女と語り合えることが嬉しかった。

 

ボクにとっては、彼女のように身近にいながらビジネスパートナーとして接することができる女性という位置づけが新鮮であり、また刺激的でもあったのだ。

 

こうしてボクの彼女の関係は、夏の暑い季節の間、日々深まっていったのだ。

前回のブログで、28年前に亡くなった妻の思い出に触れたのだが、それまでの話の流れとまるで無関係な出来事だったから、ブログを読んでくださっている方には、なんの事やら理解ができなかったと思う。

 

そこで、話はかなり前後するのだが、少しだけ亡くなった妻との出会いを振り返っておこうと思う。

 

 

 

当時、経営していたスポーツ用品店が倒産し、逃げるようにしながら住まいを転々としていたボクは、最後に、6畳一間の安アパートに転がり込んでいた。

 

トイレも台所も共同で、風呂は住人が作ったシャワー設備がひとつあるだけの、本当にみすぼらしいアパートだった。

 

 

 

ところが、そこで暮らしている住人たちは、漂泊の旅人さながらに、あまり荷物も持たず、日々を自然と対話しながら生きているような人ばかりだったのだ。

 

このアパートを紹介したのは、ボクの会社が倒産する前に離婚した2度目の妻だったのだが、このアパートには彼女と彼女のボーイフレンドも暮らしていたのだ。

 

それだけではなく、彼女の兄(元の義兄)とガールフレンドのカップルもいた。

 

つまりは、ある種の瞑想グループに属する人たちの共同住宅的な場所だったのだ。

 

2度目の妻がインドやアメリカに行って瞑想修行をしていた事は以前のブログに書いたが、そういう事をしている人たちの集まりだったのだ。

 

そこで知りあったのが、28年前に亡くなった3番目の妻だったのだ。

今日、ネットのニュースで飛び込んできたのが、市川海老蔵さんの奥様麻央さんの訃報。

 

この一年、ご夫婦のブログを拝見していたので、なんとも残念でならない。

 

 

 

28年前、私の妻も麻央さんと同じ34歳、そして麻央さんと同じ癌に侵され、入院からわずか2週間で短い人生を終えた。

 

34年の命というのは、あまりにも短い。

 

海老蔵さんと麻央さんの結婚生活は7年ですが、ボクと妻の結婚生活は2年にも満たない短いものだった。

 

 

妻は、まだ若く分別もなかったボクを、まるごと受け入れ包み込んでくれるような、人としてとても大きな存在の女性だった。

 

今で言う「男前」な女性で、5~6人の男友達と車座になって酒盛りをして、軽く一升を空けてしまうような女性でもあった。

 

同時に、とても傷つきやすい心の持ち主で、思春期には2度もリストカットをし、睡眠薬を飲んで搬送されるといった経験の持ち主でもあった。

 

とある集まりでボクがひと目惚れし、知人を介して紹介してもらった事から付き合いが始まったのだが。。

 

知り合ってから2週間、ほぼ毎日、二人で飲み歩き、語り合い、笑い合ったある日、彼女の口から出た言葉は、

 

「心と感性の相性はええみたいやし、後は身体やね」と。

 

なんとも聡明で男前な、素敵な女性だった。

 

 

 

 

あの日。。。

 

妻が息を引き取った日、ボクは義母に病院の付き添いを頼んで、自宅で休んでいた。

 

深夜11時過ぎ、義母から電話があり、妻の容態が急変したと聞かされたのだが、その後についてはっきりとした記憶がない。

 

慌てて車を運転して病院に駆け付けたと思うのだが、気がつくと、妻が横たわる病室のベッドの周りを、大勢の医師たちが取り囲んでいて、ボクたち家族は離れたところから、ただその様子を眺めていたのだ。

 

 

 

 

その10日ほど前、34回目のボクの誕生日に、妻から小銭入れをプレゼントされた。

 

買い物に行けない妻に代わって、義母さんが選んでくれたものらしく、妻の趣味でも私の趣味でもない、なんとも言えないデザインのそれを手に、

 

「まっ、まっ、しゃあないやん笑笑  また、今度な」と、

 

義母に聞こえないように、小さな声で言った言葉が蘇る。

 

 

 

 

ボクは、妻が入院して1週間後、担当医から癌である事、手術のしようがない状態である事、余命が数ヶ月である事を告げられていた。

 

妻は入院当初は自分の病状に気づいていなかったのだろう、

 

「あ~、なんかうまいもん食いに行きたいなあ」と、

 

ベッドの中からおどけた表情で、私たち家族を笑わせてくれていたが、入院して1週間もしない頃から徐々にその力もなくなり、痛み止めのモルヒネで意識が朦朧とするようになってしまった。

 

 

そんな状態の中でも、ボクの誕生日を気にして義母に買い物を頼んでくれた妻。また、その義母の買ってきた誕生日プレゼントにダメ出しをする妻。

 

今思い出しても愛おしい人だ。

 

34歳というあまりにも短すぎた人生に、妻はどんな思いを残して逝ってしまったのだろう?

 

今日の麻央さんの訃報に接して、28年前に同じ歳でこの世を去ってしまった妻と過ごした時間が、走馬燈のように蘇ってくる。

 

 

今、海老蔵さんがどんな気持ちでいるのか、想像もできないけれど、お子さんたちのためにも頑張っていただきたいと思う。

そして、心より麻央さんのご冥福お祈りしたいと思います。

家に帰ると、奥さんと彼女が 「お帰り~」と迎えてくれる。

 

こんな生活が始まって僅か数ヶ月で、ボクは家の外で別の彼女と付き合うようになっていたのだが、そこでもまたもう一つの二股交際になり、その1つが破局した。

 

こういう話は、普通の人に話しても 「嘘やん」のひと言で相手にしてもらえないのだが、分かる人には分かるのだ。

 

 

最近では、彼女いない歴数十年の男性が多数いるらしいが、結局、集まるところに集まるのだ。

 

この当時のボクも、いわゆる 「モテキ」に入りはじめたという事だろう。

 

何もしなくても、出会いがあり、恋が芽生える。(愛ではないが)

 

こういう時には、出会いは無際限に訪れるものだ。

 

付き合っていた女性と別れて、時間の余裕ができるとそこにまた新しい出会いがある。

 

次に出会った女性は、某有名ブランドの社員で、ファッションビルで販売員をしていた女性だった。

 

 

彼女は、ちょっと日本人離れした顔だちで、肌が透き通るように白く、さらさらのストレートヘアに小顔という、誰が見ても美人というタイプの女性だったのだ。

 

そのブランドが好きで、いつも立ち寄っていたショップで出会ったのだが、ひと目見ただけで気に入ってしまったのだ。

 

彼女を食事に誘うことに成功したボクは、そこで彼女についていろいろな話を聞かせてもらったのだが、なかでも彼女が合気道をやっている話では大いに盛り上がった。

 

 

ボクは彼女に、スポーツ用品店のディスプレイにブランドショップのノウハウを活かして欲しいと持ち掛けたのだが、自身が合気道をやるほどのスポーツ好きだった彼女も、この提案にすくなからず興味を示してくれた。

 

最初は、休日などを使ってのサイドジョブのつもりだったのだが、会社の規則でそれはできないという事から、いつのまにか転職(引き抜き)のような話になってしまった。

 

もちろん、ボクとしてはそれでもよかったので、スポーツ用品店のあり方を変えたいという思いを共有できる相手として、彼女との交流はとても刺激的なものだった。

 

結局、務めていた有名ファッションブランドを退社した彼女は、ボクが社長を務めるスポーツ用品店へと転職することになったのだ。

ディスコでのハプニングがあってから1ヶ月、ボクはそれまで時間の許す限りあっていた彼女と連絡を取らないままになっていた。

 

酔った勢いとはいえ、自分の紹介した友達と公衆の面前でキスシーンを演じられたのだから、彼女が受けたショックは相当なものだったに違いない。

 

 

ただ、ボクが連絡を取らなかった理由は、彼女に対して申し訳なく感じていたからではなく、それとはまるで反対の理由からだった。

 

 

 

あの日、ディスコで感じたエキサイティングな昂ぶりに、ボクは完全に憑りつかれていたのだ。

 

重ねた唇の感触、抱き寄せた肢体のぬくもり、絡めた指先の繊細さ。

 

すべてが夢の中での出来事のようにおぼろではあったが、確かな記憶としてボクの中で幾度も再生されていた。

 

 

あの感触を思い出す度、もう彼女との関係は続けられないと感じていた。

 

だから、彼女から連絡がない事に内心では安心していたのだ。

 

 

 

その頃、自宅では、奥さんと一緒に住んでいた彼女の関係がますます密になっていた。

 

引っ越した時についた嘘の「親戚の子」という関係以上に、まるで姉妹のように何をするにも二人で一緒に行動していた。

 

ただ、あれ以来、ディスコに襲撃をかけるような事はなく、もっぱら家で愛猫の世話やおしゃべりに時間を使っていたようだった。

 

そのため、ボクは家庭の事をまったく心配せずに、自分の欲するままに行動することができていた。

 

 

 

ある時、彼女たちと同じ大学の知人から、ディスコでの一件があって以来、彼女が同級生と絶交したという噂を耳にし、同時に、彼女の同級生だと紹介された女性の連絡先も聞き出すことができた。

 

ボクはすぐに彼女に電話して、ディスコでの事を謝罪したのだが、意外にも、彼女はそれほど気にしている様子もなく、二人で食事をする約束まで取り付けることができたのだ。

 

それから数日もたたないうちに、ボクたちは、高校生の頃にバスケットをやっていて、食事はガッツリ食べたい方だという彼女の希望で、焼き肉を食べに行くことになった。

 

 

この頃、奥さんは菜食だったし、一緒に住んでいた彼女は極度にカロリーを気にしていたので、ボクは家で肉を食べる機会が殆どなく、肉好きだったボクはその点で大きなフラストレーションを抱えていたから、彼女の希望はボクの希望でもあったのだ。

 

 

ボクたちの関係は、このファーストデートによって、最後まで規定されたといってもいいくらいに、二人で過ごす時間の殆どが食事にあてられる事となった。

 

一緒に食事をして楽しい相手、気兼ねなく食事できる相手、美味いものを美味いと喜び合える相手というのは、簡単なようでなかなか出会えないものだ。

 

彼女は、ディスコでお互いの身体のぬくもりを通じて感じあえたように、一緒に食卓を囲むことで何かを共有できる相手だったのだ。

 

 

 

何度も食事をしているうちに、彼女の話も聞くことになった。

 

彼女の実家はお寺で、お父さんは某球団に所属するプロ野球選手だったこと。

 

 

そのお父さんが早くに他界して、お母さんと二人で、あまり豊かでない子供時代を過ごしてきたこと。

 

大学もアルバイトで学費を稼がないと続けられないこと、などなど。

 

 

 

「なるほど、これがボクが彼女と出会った理由だったんだ」

 

彼女の話を聞きながら、ボクはなぜかそんな風に思っていた。